植民地の新聞

 10月17日の朝日新聞の朝刊を見て驚いた。總選挙が始まったところなの、第一面のトップの記事がニュースはなくて、アメリカ大統領選挙の解説記事で、「ハリスの実像」というのである。

 確かにアメリカ政治の世界に及ぼす影響は大きいから、その解説があっても悪くない。しかし、今やこの国の総選挙が始まったところである。他に急な大事件でもあったのならば、それが一面を飾っても当然であろうが、余程ニュースがなかったのか、ニュースでなくて、解説記事がトップニュースの欄を埋めている。今や日本では裏金問題が大きな問題となり、内閣も変わってその信を問う総選挙が始まったばかりである。

 当然、候補者たちの街頭の第一声とか、抱負であるとか、意見などを読者は期待していることであろう。それを裏切って、選挙のことには触れずに、アメリカ大統領選挙の解説記事がトップを飾り、日本の総選挙には触れないとはどういうことであろうか。

 出来るだけ選挙に触れなければ誰が得をするか。裏金関係の元議員の立候補者がそのまま当選し、「禊は済んだ」とばかり、また悪行に勤しむことはあまりにも明らかではなかろうか。政府も当選すれば適当な役職にも就かせるとさえ言っている。

 裏で政府をおもんばかった圧力がかかっているのではないかと勘ぐりたくなる。翌朝の18日の朝刊を見ても、一面のトップは「朝日東大共同調査」として先に行われた裏金問題を受けて成立した改正政治資金規正法について、適切だったか、不十分だったかのアンケートの結果になっており、総選挙には全く触れていない。

 他の新聞などはどうなっているのかわからないが、あまりにも異常ではなかろうか。朝日新聞は戦後、それまでの政府寄りの報道を反省して、読者にもそれを公表したことがあったが、再び似たような政府追随を後悔しなくても良いようにして貰いたいものである。

「朝日東大共同調査」を取り上げて、裏金問題に触れようとしているのが、かすかな抵抗の現れなのかも知れないが、この期に、どれだけ踏ん張れるかが大切なような気がする。

 総選挙中であるにも関わらず、それには触れず、日本人が投票出来ない外国のアメリカ大統領の選挙の解説が一面のトップを飾る新聞を見て「これは日本の新聞なのだろうか、もうアメリカの植民地の新聞ではなかろうか」と思わざるを得なかった。

過疎地の復興は無駄

 今年の初めに能登半島を襲った地震では、地盤の隆起や、高波、それに輪島の火災まで加わって、この地方は広範囲に渡って壊滅的な被害を被ったことは、まだ人々の記憶に新しい。

 承知の如く、地元の住民や、全国から駆けつけたボランティア等の差し当たりの救助活動は進んだが、もともと少子高齢化で過疎化の進む地方で、復興がどう進むのであろうかと初めから気になるところであった。

 基本的に人命救助、災害復興は政府の最も基本的な行政サービスであるが、危惧されてきた通り、政府の対策は遅れがちであった。岸田首相の能登への訪問の足取りも重く、遂には上の記事の如くに、財務省に「過疎地の復興は無駄」とまで言わしめ、復興は遅々として進まなかった。半年経って夏になっても崩壊した街並みはそのまま、金沢などに身寄りをあてに転居した人も帰れず、仮設住宅の建設なども遅れがち、9月になっても復興は一向に進まなかった。

 こういった政府の態度に、私までが腹を立てていた矢先に、天罰の如くやってきたのが9月末の大雨の災害であった。復興がもっと速やかに進んでいたら、被害も少しは軽減されていたであろうに、地震で潰れた街並みが再び大水にやられて、被害を大きくしたことは間違いないであろう。仮設住宅まで床上浸水し、仮設にやっとありついた安堵の地が、再び災害を受けるという悲惨な目に遭った人まで出た。

 これは単なる大雨の被害ではないとも言えるのではなかろうか。時間もたっぷりあったのだから、大雨を予測していなくとも、復興事業さえもっと進んでいたら、大雨の被害ももっと軽くて済んだのではないだろうか。

 二度も立て続きに被害を受けられた方々に心から同情すると共に、過疎地だからからと言う理由で復興事業に手を抜いた政府に心から怒りを感じるものである。

 

デカンショ節

 戦後間もない頃、私は名古屋にあった旧制度の第八高等学校生で、学校の寮で寝起きしていた。学校も空襲で焼けて、戦時中の航空隊の将校宿舎を使っていたが、高校ではどこでもその学校の寮歌を持ち、寮生たちが機会があるごとに寮歌を歌っていたものであった。そしてそれと共にどこの学校でもデカンショ節という、好きなように歌詞を作れるような歌も蛮声を張り上げて歌っていた。

 当時はデカンショ節というのは哲学者のデカルト、カント、ショーペンハウエルにちなんで出来た学生たちの歌とばかり思っていたが、元々、この歌は丹波篠山の盆踊りの歌であったそうで、今でも篠山市は伝統文化として保存に力を入れているようである。

 それがひょんなことから学生の寮歌となって拡がったのには、本当かどうか分らないが、歴史があるそうである。篠山市などによると、明治になって旧篠山藩が東京での勉学のために場所を設けて篠山人たちの便を計ったが、その若者たちが千葉県の海岸の宿で歌っていたのを、たまたま同じ宿の2階に止まっていた一高生たちが聞きつけ、デカルト、カント、ショウペンハウエルに結びつけて興味を持ち、学生の間で歌われるようになったということらしい。当時の旧制度の高校というのは多くの学生が寮生活を送っていたこともあり、それぞれの学校の寮歌などと共に、このデカンショ節も拡がったもののようである。

 戦前の旧制高校の全盛時代にはもっと流行ったものらしいが、寮生活の若者たちは何か大声をあげて自分を表現したいものだし、歌詞も自由に作り、自由に歌えたこともあり拡がり、定着していった様である。

 先ずは、「デカンショ デカンショで半年暮らしゃヨイヨ、後の半年や寝て暮らすヨイヨイ デカンショ」となるわけである。

    酒は飲め飲め茶釜で湧かせヨイヨイ おみき上がらぬ神はなし ヨイヨイ  デカンショ

そう言えば丹波篠山の歌もあった。

    丹波篠山山がの猿が 花のお江戸で芝居する

    丹波篠山山奥なれど 霧の降るときゃ海となる

こういったクラシックなものから学生たちはもっと身近な歌も作った

    教師教師といばるな教師ヨイヨイ 教師生徒の成れの果て ヨイヨイデカンショ

 戦後のアメリカ軍の占領が始まっていたので、これを捩って

    アメ公アメ公と威張るなアメ公ヨイヨイ アメ公ヨーロッパの成れの果て

などとも歌われた。またもっとオーソドックスなものとしては

    同じするならでかいことなされヨイヨイ 奈良の大仏屁で飛ばせ ヨイヨイデカンショ

    同じするなら小さいことなされヨイヨイ 蚤の金玉八つに裂き ヨイヨイデカンショ

 今は障害者の差別になるので歌えないが、当時うまいこと言ったものだなと感心したので、今でも覚えているのは

    塀の向こうをチンバが通るヨイヨイ、頭見えたり隠れたり、ヨイヨイデカンショ

 などというのもあった。もう遠い昔のことで、殆ど覚えていないが、もっと興味深い歌詞もたくさん作られ歌われていたに違いない。

 もうあの頃の自由な発想の若者のデカンショ節が復活することはないであろうが、昔の日本の若者たちが夜空に向かって、大声で寮歌やデカンショ節を歌っていた時代があったことも忘れられない時代の一風景であった。

「傘修繕、蝙蝠傘修繕・・・」

 私の若い頃には、まだ行商人がよく住宅地などを廻って、品物を売りに来たものであった。皆それぞれに通りを歩いて、特有な節回しの、決まったような言葉で呼びかけていたものであった。

 もう殆どど忘れてしまったが、「かさ、しゅうぜん、こうもりがさ、しゅうぜん・・・」などの呼び声は、今でも前の通りから聞こえてくるような気さえして、懐かしい。

 また、長い竹を何本も担いで、「たけ、たけ、あおだけ」と言いながら町内を練り歩いていた声もあった。今で言ったら廃品回収の小型トラックが何やらスピーカーで喋りながら町内を廻っているようなものだが、どこかに哀調を含んだ生の声とは情緒が違った。

 私は子供の頃、西宮の香櫨園に住んでいたことがあるが、当時は埋立地などなく、海水浴場があり、まだ浜での地引網でイワシが取れたので、収穫がある毎に、「イワシイワシ」と元気な掛け声をかけながら、漁師さんが街を廻っていたものだった。

 その他にも色んな行商人が住宅地にも入り込んでいたような気がするが、思い出せるのは、タバコの羅宇屋、靴修繕屋などである。勝手口の近くに座り込んで修理していたような記憶がある。この他にも、もう思い出せないが、それぞれに独特の節回しで呼びかけながら通りを歩いて商売していた人たちがいて、時々、我が家の前も通って、のどかな呼び声を聞かせてくれたものだった。

 また、どこかの大売り出しのある時などには、ちんどん屋さんが隊伍を組んで、笛や太鼓で賑やかに街を練り歩いたので、音を聞くや否や、子供たちは家から飛び出して行列を見に行ったものであった。

 こんな風に辻々まで廻らなくとも、決まった街角や広場や公園などでの行商も多かった。豆腐屋さんや石焼き芋、ラーメンや蕎麦屋さんなどが屋台で、いつも大体同じ時間に、同じ場所で店を開いていたことが多かった。

 子供達に人気のあった紙芝居屋さんやアイスキャンディー屋さんもそんな所に多かった。生学4、5年の頃、当時はチフス赤痢が流行っていたので、外での立ち食いは厳禁だったが、友人と一緒にこっそり食べたアイスキャンディーの美味しかったことを今でも覚えている。

 もう一つ、行商といえば思い出すのは、時々、家に現れていた呉服屋さんのことである。何本もの反物を入れた大風呂敷を肩から背負って座敷に上がり、いつも母と向き合って、次々と反物を転がして拡げながら、色々会話を交わしていた光景も忘れることが出来ない。

 今のように全ての商売が大規模になり、個人的な売買の人間関係が薄くなってしまった咋今では、全て遠い昔の思い出になってしまったが、戦前から戦時、戦後の混乱期、復興、高度成長、停滞と色々な時代を経て、長く生きていると、こんな時代のあったことも懐かしく思い出されるわけである。

96歳のラジオ体操

 ずっと以前にこのブログにも書いたことがあるが、80歳を過ぎ仕事で毎朝早くから出掛けなくても良くなってから、朝のラジオ体操を始め、そのうちに腕立て伏せの出来ないことに気づいて、腕立て伏せ以外の等張性運動も取り入れ、毎朝テレビのラジオ体操の時間に合わせて体を動かすようにしてきた。

 以来毎朝6時前から、腕立て伏せ30回から始め、椅子からの立ち上がりなどの等張性運動をした後に、7時25分からのラジオ体操をするのをずっと続けて来た。80代の初め頃には、早く起きて、早足で箕面の滝まで行って、帰ってからラジオ体操が出来た時代もあったが、90を過ぎるとそれは幾ら何でも無理。箕面の滝へ行くだけでも大変になってしまった。

 それでも、自分流の等張性運動とラジオ体操は、91歳で間欠性破行になって中断したことはあっても、その後も続けてきた。しかし、96歳になって免疫性血小板減少性紫斑病になって入院してからは、ラジオ体操は復活させたが、等張性運動はそれを機会に途切れてしまった。

 しかもラジオ体操の方は今もなお続けてはいるが、以前には何とも感じなかった動作がえらくなってきた。特に跳躍するような動作は無理になり。足を動かすだけにしてみたり、バランスを取りながらするような運動も難しくなり、適当に手抜きをして、流れに合わせるようにしなければならない。女房が気にしてリビングの低いテーブルの角にはクッションを置いて、万一の転倒時に備えている。

 テレビの指導者は自分なりで良いというが、自分なりに適当に楽な動きにして手抜きをしないとテレビの流れついていけないし、危険でもある。以前はラジオ体操など簡単にこなせ、終わってもどうということもなかったが、今では少し激しい動きは疲れるのでついていけないし、終わったら昔と違ってやれやれと思うようになった。

 歳による体力の衰えはどうにも仕様がないものであろううか。素直に受け入れるべきであろうか。それでも、何とか今なお毎日曲がりなりにも続けられていることをよしとしなければならないのであろう。

世界で一番戦争をして来た国

 いつだったかもう忘れてしまっていたが、たまたまアメリカが建国以来今日までの間に、どれぐらい戦争をしてきたかということを調べた一覧表のようなものを載せた記事を見つけて、いつか何かの参考になるのではないかと思い保存していた。

 もうすっかり忘れてしまっていたが。たまたま、先日見つけて読んでみた。表題は

”America Has Been At War 93% of the Time – 222 Out of 239 Years – Since 1776”

というものでBy WashingtonsBlog となっている。オリジナルのものは2011年にまとめられているようだが、2015年にそれ以後のものを加えて『February 23, 2015 "ICH" -  The U.S. Has Only Been At Peace For 21 Years Total Since Its Birth』として発表したもののようである。
  http://www.washingtonsblog.com/2015/02/america-war-93-time-222-239-years-since-1776.html

(註:ここに延々と続く実際のアメリカの戦争の年次別の記録が書かれているが、ここを押しても反応しないので現在は最早開けないかも知れません)

 表題通り、アメリカは1776年の建国以来戦争がなく平和だったのは全部合わせても21年に過ぎず。建国から239年のうち222年は何らかの戦争をしている年であったそうである。それが2015年の時点でのことだから、その後も、アフガニスタンからの撤退が2021年だから、それまでもずっと戦争をし続けていたわけである。

 更にその後さえも、ウクライナによるロシアとの代理戦争や、パレスチナへのイスラエルの侵攻への積極的な武器供与などをみると、これまでずっとアメリカは戦争を続けていると考えたほうが良いかも知れない。建国以来の年数の分母が増えても、そのまま分子も増えるので、戦争中の年やその割合は更に増えていることになる。

 まるでアメリカは1776年の建国以来、殆どかかさず、年がら年中戦争をしている国と言っても良さそうである。それに関連するのか、退役後の自殺者数が戦死者の4倍を超えると言われているそうである。

 アメリカがどういう国か、そういう過去も心に留めて、現在を見、将来を予測することも大事なのではないだろうか。

初めてのアメリカ

 私が初めてアメリカへ行ったのはもう63年も昔のことになる。先に書いた通り、11日間もの暗い太平洋の船旅を終えて、サンフランシスコの港に着いたのであった。今と違い、旅行のガイドブックなどもないので、どんな街でどうなっているのか、人づてに聞いた話しかわからない。

 先輩でサンフランシスコに留学していた人がいたので、手紙で出迎えを頼んでいたが、船のデッキから見ても見当たらない。一緒に乗っていた客たちは次々に降りていく。一人取り残されて少し不安になった。このまま誰も迎えに来なかったらどうしたらいいのだろうか。それこそ右も左も分からない土地である。

 それでも少し待っていると、埠頭にに知っている顔が現れてホッとした。その先輩の案内で、港に近い安ホテルに連れて行って貰って、やっと一安心。先輩とは仕事の関係もあり、ホテルの前で別れた。

 サンフランシスコで確か1〜2日泊まり、そこからは飛行機でフィラデルフィアまで飛ぶことになっていたので、その翌日だったか、近くの街の様子だけでも見ようと思って街へ出た。ただその前に、驚かされたのがホテルのトイレであった。便器の水を流したら青い水が出て流れるではないか。当時はまだ日本ではブルーレットなどといったものはなかったので、どうなっているのだろうと少し不思議だった。

 外へ出て、近くの街の様子を見、少し足を伸ばして、フィシャーマン埠頭や市役所などを見学し、日本人街だったかと思うが、日本人の食堂に入った。そこで、何か丼ものを食べて勘定しようとしたら、店員さんに「1円50銭です」と言われてびっくりした。小さな日本人社会では祖国懐かしさから、ドルを円に置き換えて言っていたようである。

 街へ出てまず驚かされたのは通りを歩く人たちの服装であった。丁度、5月の初めだったが、立派な黒っぽい毛皮の外套を着て歩いている女性に見とれていたら、すぐその横を、まるで水着のような太ももまでを露出させた若い女が行くではないか。日本では考えられないその光景が今も強く網膜に焼きついたままになっている。男性も日本のように背広姿は少なく、派手なシャツ姿や短パンの姿も入り混じっていた。

 一旦ホテルに戻り、出直して街の中にあった航空会社の受付ロビーに行き、飛行機の予約をし、翌日にフィラデルフィアまで飛ぶことになった。ところが当日になって受付に行くと、飛行機が延着するとの変更がアナウンスされているではないか。フィラデルフィアの空港に留学先のボスが迎えに来ることになっていたので、時刻変更の連絡をしなければならない。

 そこでカウンターの女性に到着時刻を確かめると、Four Tenと教えてくれた。ところがそれをFourteenと聞き違えた。それを電話でボスにそのまま伝えたものだから、ボスの方もおかしいなと思ったが、わざわざ電話で伝えた来たことだし、それに合わせて空港へ行き、長い間待たせることになってしまったのであった。今思えばアメリカで24時間の時制を使うことなど先ずないので、聞き違えることもなかったのであろうが、これが最初の失敗となってしまったのであった。

 飛行機の出発が遅れたので、同じ待たされ者同士が喋ることになるが、毛色の変わった東洋人に対しては、先ずはどこから来たのかということになる。当時はアメリカではまだ日本人は少なかったので、「フィリピンから来たのか」と聞かれたのだった。そういえば横浜では、中国人と間違われたこともあった。

 そこでようやく飛行機に搭乗し、今度は飛行機なので広いアメリカ大陸もあっという間に飛んで、フィラデルフィアの空港に着き、ボスに迎えて貰い、ボスの車でボスの家まで送って貰って歓待され、そこからアメリカ生活の第一歩が始まることになったのであった。

 特別な体験だったので、この時のことは今もよく覚えているが、もう遥か昔のことになる。この時以来、アメリカへは何度往復したことであろうか。しかし、この最初の船で行ったこの体験は、今も大事に心のうちに仕舞われている。