トライウオーカーの奨め

 90歳も過ぎると歩くのが遅くなり疲れやすくなるのは仕方のないことだろうか。

 若い頃からよく歩いていた私も、歩いていても女性や、子供にも追い抜かれるようななるし、昔なら何でもなかった距離を行くにも疲れやすくなり、途中で休まねばならないことが多くなった。

 その上、年と共に転倒し易くなったので、杖を使っていたが、それでも転倒するもので、この春には、転倒した際に、杖が口吻にあたって、入れ歯が割れる事故を起こした。

 そこで、以前に脊柱管狭窄症になった時に使ったことのある、老人がよく使っている4輪の手押し車(いわゆるシルバーカー)を出して来て使うことにしたが、車輪が小さいので、道の段差にひっかかかりやすいし、砂利道などでは円滑に進めない。坂道も登りは良いが下りは使い難い。

 何かもう少し便利なものはないかなと探していた時に、たまたま見つけたのがこの「トライウオーカー」なるものである。何でも、チェッコに行った人が、その地で老人たちが3輪の歩行補助具を使っているのを見て、日本でも作ってみたということであった。

 これは名前からもわかるように、3輪車で車輪も多少大きく、後ろの2輪の間に体が入るので、前屈みにならずに、体を真っ直ぐにしたまま車を押せるので、移動が楽で、いわば自転車に乗っているのに似た感じで進むことが出来るので気持ちが良い。

 前輪は独立しているので小回りりが効くし、ブレーキにいつも手を添えているので、急の停止も楽である。それに3輪を折りたためるので、駐輪に場所を取らないし、軽いので脇に抱えて運ぶことも出来る。タクシーも後部のトランクに入れてもらわなくても、車内に持って乗ることも出来る。駐輪の時には駐輪用のブレーキで固定出来るのも嬉しい。

 早速Amazonで購入して使い始めたが、とても快適である。車が自然に回転し、体がそれについていくような感じで、両手でも体重の一部を支えることになるので体が軽くなり、車の回転とともの体が自然に軽く前方に進むことになるので疲れ難い。杖歩行と違いスイスイと歩ける感じがして、疲れずに休を入れなくとも長距離歩ける。

 坂道も登りはシルバーカーなどと同じ感じで、杖よりずっと楽だし、下りも三輪なので、体を前の方に寄せるようにして、体がウオーカーを支えるような感じにして降れば、軽い坂などでは全くブレーキを使わずに、大股で気持ちよく下ることが出来る。コマの小さい4輪のシルバーカーとは大いに違う点である。

 また街中での利用法としては、エレベーターは登りは歩行時と同じようにエレベーターに乗せればそのまま行くが、下りは危ないので、折り畳んで脇に置き、レールに捕まるようにすれば問題はないであろう。階段は、上り下りとも、折り畳んで脇に抱え、5kgなので、手すりにも頼れば、私のような小柄な力のない老人でもそれほど苦労しない。

 階段で「持ちましょうか」と声をかけてくれた親切な青年がいたが、私が断ったのを見て、娘が「親切な人には断らずに、持ってもらった方が相手の親切に答えることのなるのでは」と言いました。

 日本では、まだこの「トライウオーカー」はまだポピュラーではないので、足が悪い人用の歩行器と思う人が多いようで、こちらを身障者のように思う人もあるようで、時に「頑張って下さいね」などと声ををかけられることがあるし、そういったイメージから格好が悪いとして忌み嫌う人もいるようだが、老人の生活内容は格好よりも実質である。

 杖歩行の時と「トライウオーカー」を使うようになってからと、どれだけ違うことだろうか。私の狭い経験だけから見ても、もう半ば諦めかけていた箕面の駅から滝まで5.6kmの”月参り”も、スイスイと行けるようになり、見事復活させることが出来た。それも、杖の場合には途中で何回か休まなければならなかったのが、1~2回休むだけで行けるようになったりと、その効果は大きい。

 強いて注文を付けるとすれば、全重量をもう少し軽くして、階段の昇降時などに脇に抱えやすいようにすること、前輪を心持ち大きくして段差につまずいたり、砂利道などでの進行をスムースにすることぐらいであろうか。

 この「トライウオーカー」は思いの外の優れものである。これは決して福祉用品ではなく、手足などに障害がなく健康だが、老いのために弱った手足の人たち用のものである。世間に多い、一応元気だが、杖歩行でヨタヨタ歩いているような老人たちは、是非一度この「トライウオーカー」を試みられては如何であろうか。きっとさっさと歩けて若返ったような気になられるに違いない。

野壺(肥溜め)

   便壺、肥壺、野壺、肥溜めなどといっても今の若い人々には分からないかも知れない。

 便壺といえば水洗便所が一般に普及する以前のトイレの便を受ける壺のことである。水洗便所になる前は、この便壺に溜まった便は、定期的に近在の農家の人が、天秤棒で担いだ肥桶を持って現れ、トイレの下に設けられた開口部から柄杓で便を汲み取って肥桶に入れて持ち帰ってもらったものであった。汲み取り屋さんなどと言われていた。

 その開口部があるので便所は寒く、また、蛆虫が発生しやすく、蝿が便器の下で舞っていたりしたものである。便器に木の蓋などをしているところもあったが、蝿にも臭いにもあまり効果はなかった。小さな子供が便壺に落ちる事故や、開口部から忍び込む泥棒が問題になったこともあった。学校で低学年の子がいなくなったら先生がまず探すのが便所であったのである。

 百姓さんが持ち帰った便はいったん田んぼの隅に設けられた、もっと大きな肥壺に蓄えられて、必要な時に田んぼに撒かれ、稲作の肥料、下肥として使われていた。化学肥料が使われるようになる以前は、この人糞が最も大事な稲作の肥料だったのである。この田んぼの隅の肥壺は野壺と言われたり、壺でないものもあり、肥溜めなどとも言われていた。

 この野壺の中に蓄えられた便は次第に発酵するので、壺の表面は幕を張ったようになり、どうかすると液体のようには見えないようになるのが普通であった。

 田の片隅にあり、表面が液体のように見えないので、田舎の子供達が遊んでいるうちに、誤ってこの肥溜めに落ちることも時々あったらしく、落ちたら戒名するという風習などもあったようである。また、酒に酔って帰る途中で野壺にはまった人が、女性に化けた狐に誘われて風呂へ入ったと思っていたら肥壺だったというような話もあった。ついでに言えば当時は畑の中に野井戸というものもあり、そこへ落ちる子供もいた。

 まだ日本で水洗便所が普及したのは大阪万博の頃からであるから、今から思えば嘘のように思えるが、学校でも定期的に寄生虫の検便があった時代、バキュームカーが家々を廻って各家庭の肥壺から便をを抜き取って行った時代、田の肥料として便が用いられなくなって、便を大量に海へ流したために、大阪湾の海の色が黄色く濁って問題になった時代などを経て、和式便所も減り、現在のような水洗式の洋式便所がトイレとして一般化したのである。

 そんなことを前提として、私が経験した野壺の話はこうである。戦時中、中学生であった我々には教練という学科があり、集団行進や鉄砲の扱い方、銃剣術などと軍事訓練が課せられていたが、その一環として、夜行軍として天王寺から橿原神宮まで夜道を行軍したことがあった。途中で真っ暗な田舎の田んぼの間で休憩することになった。

 休憩の号令とともに、皆一斉に整列を解き、思い思いに周囲に散らばって道路脇に腰を下ろした。あたりは真っ暗なので薄明かりを利用してそれぞれが道端に座り込んだのだが、中の一人が友人と一生に座る場所を探した時、丁度そこに野壺があり、表面が薄明るく光っているので、コンクリートか何かのような固い感じがして、そこに腰を下ろそうとして、まともに野壺にハマってしまった。そこへ、友人も一緒に座ろうと後から飛び込んだものだから、後からの者が先の者の頭を抑える格好となり、二人とも全身すっぽりと野壺に浸かってしまった。

 びっくりして二人は何とか這い出たものの、夜の真っ暗な田圃道である。驚いて途方に暮れた先生が仕方がないので行軍は中止して、近くの農家を起こし、風呂をを沸かしてもらって、二人の体を洗う羽目になったようである。

 我々はその二人や先生などを残して、夜行軍を続けたので、後の始末がどうなったのか詳しいことは分からずしまいになったが、今でも忘れられない戦時中の思い出話である。

 もう今はないから良いが、野壺は表面に幕を張るので夜など返って明るく見えたのである。

銀飯〜銀シャリ

 もう「銀飯〜銀シャリ」などと言った言葉は死語になっているのであろうか。「銀飯」とは何のことはない。炊き上げられた白米の艶々した外観からきたもので、単なる白米のおにぎりなどを差したものである。

 私にはこの銀飯をめぐる忘れられない思い出がある。戦後の餓死者まで出した食糧事情の逼迫していた時代には、まずは何でも良いから空腹感を少しでも和らげれるまで食べられることが目標で、白い飯を腹一杯食べることなど夢の中の夢のような話であった。多くの人の主食はサツマイモであったり、すいとんだったり、雑炊だったりであった。楠公飯といって、予め炒った米を炊くと量が増えるといったような工夫や、水を飲んで腹を膨らませる水腹などというのもあった。

 当時は外食をするにも割り当ての外食券が必要だったが、食券があっても米の配給量が少ないので、何処の食堂でも少量の飯しか出なかった。たまたま、一駅先の食堂ではオジヤを食わせてくれるという情報を得て、友人と二人で遠路はるばるとオジヤを食べに行ったことも覚えている。オジヤにすれば量が増えるので、空腹の満たされ方が多少違うのである。

 そんな頃の話である。名古屋から大阪へ帰る汽車の中でのことであった。まだ汽車の運行状況も悪く不安定で、どの列車も超満員であった。座席は三人掛けが勧められており、芋の買い出し客が多く、通路は座り込んだ人と、芋を入れたドンゴロスの袋でいっぱいで、網棚の上に上がる人までおり、列車の乗り降りも窓からしか出来ない場合もあった。

 もちろん、列車運行状況も悪く、遅くて、関西線で名古屋から天王寺まで約八時間かかり、奈良まで来ると、やれやれ後一時間あまりだとほっとしたものであった。

 そんな状況の中での車内でのことであった。もう昼時も過ぎて皆が空腹を感じている頃であった。私の座っている斜め向かいの席に途中から乗ってきた田舎の三人組が、やおら竹の皮に包んだお弁当を出してきて、竹の皮を剥き、おにぎりを食べ始めた。

 皆の視線が一斉にそちらに向いたのは当然であった。見ると剥かれた竹の皮から顔を出したのは真っ白なおにぎりであった。皆の目がその弁当に釘付けにされて行った。包の中からは丸々したおにぎりが二つ出てくるではないか。しっとりとした艶のあるギラギラ光ったようなおにぎりである。

 我々にとっては、もう長らくお目にかかったことのない白米の艶々したおにぎである。思わず、視線がそちらに向かう。皆がお腹の空いた時間である。その表面のギラギラ光るようなみずみずしい光沢。一眼見ただけで思わず唾きが分泌されてくるのをグッと飲み込んで、まるで宝物を見るように、そのおにぎりに視線を集中させることになる。これこそまさに「銀飯」だったのである。

 今なら何でもないことである。海苔にも巻かれていない裸のおにぎりに過ぎないが、当時の飢えた人々にとっては、まるでこの世の宝のように光り輝いていた。もうそれから75年以上も経っているのに、その時の光景は今もまるで昨日のことのようにはっきりと覚えている。もう死ぬまで私の網膜に焼きついたままで消えることはないであろう。

 今や炊き上がった白米やおにぎりをどう見ても銀色に光っているようには見えないが、当時のひもじいかった頭には、そのみずみずしい輝きをもった白米のおにぎりの艶のある表面はまさに銀飯だったのである。この衝撃的だった光景は記憶から消えることはないであろう。

 本当に飢えた貧しい日本であった。今また「新しい戦前」などと言われてきているが、島国の日本の食料自給率は34%に過ぎないとか言われている。何としても平和を維持しなければ、必ずやまた底知れぬ庶民の飢餓の時代がやってくることを知っておくべきであろう。

関東大震災

 東日本大震災が起こってからもう12年経つが、福島原発爆発の後始末は未だにつかず、壊れた原子炉内の核物質はそのままだし、それを処理するために使われた汚染水は溜まりに溜まって工場敷地内に充満し、致し方なく海に放出することとなり、その善悪が議論になっている。

 この大震災のおかげで霞んでしまった面影があるが、この東北の震災が起こるまでは、何と言っても、日本の大震災といえば、先ず挙げられたのは関東大震災であった。これは1923年9月1日に起こったことである。丁度今から100年前のことになる。東京が焼け野が原になり、10万人もの人が死んだ大災害なのであった。私の子供の頃には毎年9月1日には関東大震災の事を聞かされた。

 私が生まれたのが5年後の1928年なので、私が5歳の時が震災後10年にあたるので、私の子供の頃には、今の東日本大震災の話をいろいろ聞かされたのと同じように、関東大震災についての色々な話をあちこちでを聞かされたものであった。 

 東京は震源地から大分離れていたのに被害は最も多かったようで、死者の七割が東京で亡くなっているのである。明治時代に政府が買い上げた大名屋敷跡の乱雑な開発や、隅田川の東の埋立地の木造家屋の密集などが災いし、埋立地の揺れは大きく、大火災となり燃え続けて9月3日10時ごろになってようやく鎮火したのだそうである。

 実際の地震震源地は、もっと西南の小田原、熱海あたりで、そこらは殆ど全滅で、丹沢地方は土砂崩れで、谷が埋まり、後々までも大雨ごとに川など氾濫が繰り返されたようである。その他、伊豆半島 伊東あたりでは20〜30米の津波が押し寄せたり、神奈川では地震で土地の隆起や相模湾沖の陥没など地形への影響もかなりあったようである。

 子供であった私には全貌などはわからなかったが、人々の噂話は嫌でも聞かされることになった。陸軍の被服廠跡の広場に大勢の人々が逃げて来たが、そこが火の海となって大勢の人が死んだとか、浅草の十二階建ての煉瓦造りの建物が崩壊した、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだという噂が広がり、それに怒った住民たちが多くの朝鮮人を殺したなど、色々な噂を聞かされた。

 そして、この震災のため大勢の人たちが東京から逃れ、谷崎潤一郎のように関西に移り住んだ人も多かったという話も聞かされた。

 また昭和13年だからもう震災以来15年も経っていたが、東京へ転居した折には、車窓の景色を見て、丹那トンネルを超えると震災のため景色が一変し、それまでのような農村のしっかりした佇まいの家が見られなくなり、バラックのような軽い感じの家ばかりになるのは震災のためだなどと説明されたことも覚えている。

 なお朝鮮人虐殺の事件は、最近も福田事件の本が出たり、東京都知事の被害者追悼会への出席拒否など、今なお問題が続いているが、私の子供の頃に聞いた話では、日本人と朝鮮人では外見では区別がつかないので、怒った日本人の集団は、朝鮮人には発音の難しい「五十銭を拾った」などといった言葉を言わせて、ちゃんと言えないものは朝鮮人だとして殺したというようなことであった。そのため日本人でありながら、発音が悪くはっきり言えないばかりに朝鮮人とされて殺された者もいたという話も聞かされた。

 今と違い、報道の伝達手段も悪かったので、それこそ酷い流言蜚語が一人歩きして心無い人々を焚きつけ、このような悲惨な恥ずべき事件を起こしてしまったもののようである。その頃の日本では、植民地の一級下の人間として扱われていた在日朝鮮人の苦しみは想像以上のものであったことであろう。永久に消すことの出来ない日本人の恥ずべき行為を忘れてはならない。

 関東大震災と聞くと、東京の悲惨な被害状況、大勢の人達の犠牲とともに、無残な朝鮮人虐殺事件を思い出さずにはおれない。それからもう100年も経ってしまったのである。昔から「災害は忘れた頃にやってくる」平素の備えが大事だと言われるが、平素は誰しも忙しく、差し迫っての対策が優先されるので、なかなか十分な備えが出来ないうちに、また新たな災害に見舞われることになりやすい。

 東日本大震災では津波だけでなく原発事故まで引き起こしたが、次に何処で何が起こるか誰にも的確な予想は出来ない。東京でも関東大震災後の都市計画で昭和通りなどが出来、ビルの高さ制限なども決められたが、空襲で再び焼け野が原となり、それを生かした折角の都市再建も戦後は食糧事情が長年続いたこともあり、まともな都市復興計画のないまま、乱雑な開発が進んでしまい、今日に至っている。

 軟弱な地盤の上に無数の超高層ビルが乱雑に立ち並び、何百万という人が暮らしている湾岸部にいかなる災害が起こりうるか想像するだけでも恐ろしい。果たして大丈夫なのだろうかと心配するのは私の杞憂にすぎないのであろうか。

 

 

ミミズの地獄

 いつだったか舗装された郊外の道を歩いていたら、アスファルトの路面に何匹とも知れない多数のミミズがそこらに散らばって死んでいるのを見たことがあった。その時は、ミミズの世界に何事が起こったのだろうと不思議に思いながらも、深く考えることもなく、何か異変があったのだろうかと、気持ち悪い感じがして、踏ん付けないように注意しながら、そこを避けて通り過ぎてしまっただけであった。

 ところが、最近 暑いので、朝早く川べりの舗装された遊歩道のようなところを歩いていると、いつものように、あちこちで、ミミズがアスファルトの上で、干上がって死んでいるのを見ることが多くなった。

 舗装道路の両側は草むらなので、当然ミミズがいてもおかしくないが、わざわざ舗装してある道の真ん中にで出てきて、多くのミミズが死んでいるのはどうしたことかと気になる。

 川べりの道なので、川の水量などによって、ミミズの住む地下の環境も激しく変化を繰り返していることであろう。昔から雨が降るとミミズが出てくると言われているので、雨のために地下の環境が変化すると、新たな環境を求めて地上へ出てきて、移動を始めたものの、アスファルト道路とは知らずに、どこかでまた地下へ潜ろうとするが、アスファルトでは硬くて潜れない。もう少し先へ行って潜ろうとしても、どこまで行っても潜れない。

 その内に陽がさしてくるし、アスファルト道は温度も高くなり、とうとうもがき続けても、地下へ潜る所を見つけられずに、乾涸びたアスファルト上の乾燥と高温に耐えきれず、悶え死んでしまったものであろうか。

 少なくとも二メートルも三メートルもある幅のアスファルト道では、ミミズにとっては、それを渡り切るには、人で言えば、1里も2里も歩かねばならないようなものであろう。人間は自分らに都合の良いように好きなようにアスファルト道路を作るが、ミミズにとってはそれを横断するのは大変なことであろう。

 人間様には気が付いていないのであろうが、アスファルト道さえなければ、何処かですぐにでもまた地下へ潜る場所を見つけられたのに、アスファルト道はミミズにとっては命を奪う地獄なのである。ミミズにとっても決してあのような無様な死に姿を見せたくないに違いなかろう。

 ミミズは土を食べてその中の養分を摂り、残りを排泄することにより、土壌を攪拌し改良し、自然の生態系の中で重要な役割を果たしていると言われている。ミミズの生態まで考えて道路を造る人はいないだろうが、こんな所でも、人間による開発が生態系に影響を及ぼしているのだということにも一顧してみてはどうだろうか。

サラリーマンの夏の制服

 何年か前に我が家の近くに500戸ぐらいはありそうな大きなマンションが出来た。そのおかげで北側の部屋の窓からいつも見えていた五月山の風景がすっかり見えなくなってしまったのが残念であるが、それはとにかく、毎日の朝5時過ぎの散歩の時に、そのマンションの前を通ると、もう早くから出勤する人がマンションからボツボツ出てくるのに出会う。

 こちらは目が悪いので、物を識別するのが難しいが、男性は決まったように真白なシャツに黒ズボンの姿が多い。最近はリュックを背負っている人も多い。初めは、てっきり学生かと思ったが、よく見ると皆いい歳をしたサラリーマンのようである。酷暑の夏に「朝早くからご苦労さん」と声をかけたくなるが、皆が揃って制服のように同じ格好をしているのが気になる。

 もう戦後に会社人間が一致協力して日本を復興させ、経済を盛り上げた時代ではない。三十年にも及ぶ経済の停滞の中で明るい展望も開けない。ここらで、もっと個性を生かし多様な新しい産業を育てて行かなければと言われているのに、日本人の排他的な同調性は一向に治らないようである。

 コロナのマスクについてもそう思ったが、服装ひとつ見ても、折角クールビズとかで夏のネクタイ背広姿が廃れ、カジュアルな服装が許容されるようになって来たのだから、皆一様な白いシャツに黒やネズミのズボンばかりではなく、もっと夏にあった色々な発想の服装があっても良いのではなかろうか。折角カラーのシャツが流行ったこともあるのだし、暑い季節なのだから、アロハとまではいかなくとも、涼しそうなカラーや模様入りのシャツなども考えられるのに、どうしてまるで学生の制服のように、皆が同じ白シャツに黒ズボン姿なのだろうか。

 皆がそうだから、同じような格好にしておいた方が無難だし、目立たないからということで、惰性でそういう風潮が治らないのであろうか。昔ドイツから来た青年が「日本には色がない」と言った時に「どうしてなのか。街中へ行けば、どぎついまでの派手な広告やネオンが溢れているのに」と思ったことがあったが、その青年の言ったのは、サラリーマンから学生まで皆が同じ様に黒と白の服を制服のように着ており、単色で色の無い人々の姿を指して言ったものであった。今もその頃とあまり変わっていないのではなかろうか。

 今後日本が発展を取り戻していくには、もう会社人間では古い。もっとそれぞれの個性を尊重し、多様性を重視して、他の文化も積極的に取り入れ、ユニークな発想を伸ばして行くことが必須かと思われるが、社会の根底にある日本人の同調性や排他性をどう変えていくかが問題なのではなかろうか。

 そう考えると、あのサラリーマンの制服のような白シャツに黒ズボン姿がいかにも日本人の同調性を象徴しているような気がして、果たしてこの国の将来は大丈夫なのだろうかと気になる。私の思い過ごしで、そんな心配はいらないのであれば良いが・・・。

 

 

原発の処理水放出はやり直すべきだ

 福島原発事故による処理汚染水の海洋放出について、日本政府はどうして全魚連などに対して理解し納得してもらう十分な努力をしてこなかったのであろうか。風評被害の補償さえすれば良いというものではない。

 先に書いたように、全漁連などの漁業者とは「関係者の理解が得られなければ海洋放出はしない」と文書による約束をしながら、一方的に「一定の理解が得られた」として、漁業者の反対を押し切って放出を始めたことは、あまりにも強引な一方的な約束違反である。

 時間もたっぷりあったわけだし、漁業者の納得がいく説明をして、漁業者の同意を得てから放出するのが当然の道ではないか。自国の魚業者にさえ納得がいかないままの放出は、近隣諸国の反発を買うのは当然であろう。中国や韓国、それに太平洋諸国にどれだけ懇切丁寧な説明をして同意をうる努力をしてきたのであろうか。

地震によるとはいえ、我が国の原発事故の処理のために、世界共通の太平洋に処理した汚染水を流すのである。近隣諸国のみならず関係諸国へ十分な説明をして納得して貰ってから行うことが当然の方法であろう。IAEAのお墨付きを貰ったからそれで良いというものではないだろう。

 世界の共通の海へ処理済みとはいえ、原発事故による汚染水を流すのである。十分に丁寧な説明をして納得して貰った上で放出するのが当然であろう。科学的に問題がないならないと説明して納得してもらう時間も十分あったはずである。

 いくら科学的に許容出来るといっても、自国の漁業者さえ説得出来ていないことを、利害関係を伴う近隣国に相談もなく一方的に放出するのでは、理解が得られないのは当然ともいえよう。

 太平洋は人類共通の財産である。世界の環境にも関することである。科学的に許容できる範囲であるにしても、地球環境に影響を与える行為であることには間違いない。問題にならない濃度の処理水と言っても、残存放射性物質はゼロではないし、トリチウムの運命、水素イオンの代わりに有機物に取り込まれたトリチウムをめぐる物質代謝など未知の部分も少なくない。

 それに、放出される量が微量であっても、長年に渡り放出された場合の総量なども問題になりかねない。共通の財産である海洋への放射性物質の放流である。関係する国や地方、人々の了解なしの放出はやはり問題である。放出の前に長い時間もあったことである。何故これまで関係ある国や地方、人々に納得して貰う努力をしてこなかったのであろうか。

 先ずは日本の漁業者が納得するまで丁寧な説明を繰り返すべきであろう。ついで近隣諸国や太平洋の関連した諸国の理解をうるまで、懇切丁寧な説明をするべきであろう。もう既に放出を開始しているようだが、最善は一度中止して、同意をうるまで延期するのがベストであろうが、それが出来なくとも、急いで反対に対する非難でなく、十分な説明を繰り返し、納得して同意して貰うための努力をすべきではなかろうか。