歳と足とコロナ

 コロナが流行り出してから早2年半、世の中がすっかり変わってしまった感があるが、私個人にとっても、コロナが始まったのが91歳の暮れであったが、丁度年末からコロナの流行が始まる直前に、突然、脊椎菅狭窄症にかかり、自由に歩けなくなり、仕事もすっかり辞めたので、コロナのためだけでなく、歳と足とコロナのみっつが重なって、突然、生活がすっかり変わってしまったのであった。

 歩けなくなってはいけないと思い、杖をついたり、シルバーカーを押したりして出来るだけ動くようにはしていたが、コロナのために人混みは避けねばならず、大阪へも行かなくなり、結局、家にいることが多くなって、出かけると言っても、せいぜい近くを散策するぐらいのことになってしまった。

 幸い脊椎管狭窄症による間欠性跛行は、およそ9ヶ月で良くはなったが、歳には勝てない。歩行が以前より不安定で、速度が遅くなり、疲れ易く、休みを入れないと長距離は歩けなくなったので、余程の必要がないと遠くまでは行くのが憚られるようにもなり、必然的に行動範囲が狭くならざるを得なかった。

 しかし、そのおかげでにコロナに感染するリスクも減り、歳並みの自分のペースで体を動かしたり、好きな様に生活を楽しむことが出来る様になったとも言えるのではないだろうか。

 足が悪くなければ仕事も急にすっかりやめるわけにもいかなかったであろうし、コロナがなければ、やっぱりあちこちへ出歩かないではおれなかったのではなかろうか。

 毎日の生活も結構忙しい。朝は腕立て伏せに始まる等張性運動に続いてラジオ体操をし、昼は近くの河原や公園、神社、仏閣、お城や古墳、展望台などといった所を散歩し、家では、メールを見たり、ブログを書いたり、本を読んだり、写真のレタッチで作品を作ったりと、パソコンに使う時間も多いが、その他にも、自画像を描いたり、クロッキーを描きにいったり、画廊を除いたり、音楽を聴いたり、リサイクルアートと称して、てんごまがいの作品を拵えたりと一日にすることに不足はない。

 歳と足とコロナが三拍子揃ってくれたので、あまり世間に迷惑をもかけずに、生活を変えることが出来、好きな様に暮らせる特権を頂戴した様なものである。運命の神様がおられるなら感謝申し上げたいところである。

「地域の安定 損ねる」のは誰か?

 6月12日の新聞には、シンガポールであったアジア安全保障会議で、オースティン米国防長官と中国の魏鳳和国防相が会談したことが報じられていた。

 二人が両軍の意思疎通を続けることで一致したことは良いが、オースティン長官が演説で「台湾周辺での中国の軍事圧力の強まりについて、インド太平洋地域の安全と安定、繁栄を損なう恐れがある」と批判し、中国代表団からは反発の声が聞かれたと報じられている。

 新聞の見出しには『「地域の安定 損ねる」米国防長官 台湾巡り中国批判』と出ていたが、アメリカは繰り返し、一つの中国を今でも認めているのであり、万一仮に、中国が台湾を武力統一したとしても、国内問題であり、アメリカが兎角言う立場ではないはずではなかろうか。

 新聞の報じるように、「中国は台湾付近で挑発的で、不安定化につながる軍事活動を増加させている」としても、中国の自国の周辺での行動と、本国から遠く離れたアメリカ軍のそれと同一には考えられないだろう。更には、アメリカは台湾への軍事支援を続けるとしているのだから、どちらが挑発的かわからない。誰からみても、「地域の安定 損ねる」のは誰か?と疑問を抱かざるを得ない。

 そのアメリカに乗せられて、最近、急激に軍備費を総予算の2%以上に増やしたり、沖縄に自衛隊の基地を増強し、敵基地攻撃能力まで備え、臨戦体制を取ることは、将来の日本の安全を保証するより、日本を戦争に巻き込む危険に晒すことになるであろう。アメリカは戦わず、武器だけ売りつけ、日本に戦わせようとしていることが見え見えである。

 世界は動いている。アジアの国々も最近のアメリカの対中政策に同意しているわけではない。アメリカの世界の警察官としての時代は終わりを告げようとしている。中国排除ではなく、中国をも巻き込む包摂的な秩序を思考すべきであろう。いつまでも対米関係だけに縛られていることはこの国の未来を危うくし兼ねない。

 日中対話など、日本の外交的な対策が一向に報じられないが、今こそ日米安保条約の下でも、日本は独自の外交に力を入れて、中米の矛盾を緩和し、アジアの平和を維持するために、積極的に働きかけることを軍事増強よりも優先させることが、戦争を予防し、日本を守り、アジアの平和に貢献する道である。

アメリカ領事館でのひと時

 古くから家族ぐるみの付き合いのあった女房の友人が亡くなられた。いろいろ広く活躍されておられた方だったが、ニューヨークに不動産を持っておられ、その遺産相続の遺言の証人に、たまたま私たち夫婦がなっていた。

 そんな関係で、国を跨いだ相続の手続きに、大阪のアメリカ領事館で証人の確認をサインする必要があるとかで、その夫と娘さんと4人で領事館まで出かけた。

 梅田新道の少し南にある領事館は前を通る度に、いつも大型の警察車が止まっているのが目についていたが、実際に行ってみると、思いの外の警備の厳重さに驚かされた。

 ちょうど領事館前に着いた時には、2台の機動隊の車が停まったところで、中から何が入っているのかわからないが、20〜30個もある大きな黒いリュックの様なものを下ろして、機動隊員が小分けして運んでいるところであった。

 その警察車が領事館の正面の車道を塞ぎ、その内側の歩道と領事館の敷地の境にはロープ が張られ、その開口部の真正面と両側には、長い警棒を構えた警察官が立番をしている。

 領事館の建物はその奥の歩道から2〜3段上がった広場の奥にあるのだが、その入り口は大きな建物なのに、人一人がようやく通れるぐらいの狭いドアが二つ閉まって並んでいるだけである。

 その上、ロープの中の広場には警察官とは違い、白い上着の制服を着て、腰から少し長めの警棒を吊るした人達が2~3人、建物に出たり入ったりし、広場でも何かしている。こちらはどうも領事館の警備員の様である。やって来た人たちに、約束の時間を聞いて案内したりもしている。

 いくらか早く着いたが、時間まで待てと言われて、歩道で待つこと15分。ようやく時間が来たが、予約票に娘さんの名前しかないので、他の3人は入れて貰えず、更に外で待たされる。娘さんが入って、手続きをして15分ぐらい待ってやっと入れて貰えることとなった。

 と言っても、その前に、外で携帯電話の電源を切らされ、それを小さな籠に入れて持参、漸く狭いドアから一人づつ中に入る。入ると、先ずは空港などと同じ感知装置のゲートを潜り、次いで、持ち物のX線検査。鍵と小銭入れの硬貨が引っかかり、やり直して、すぐ横のエレベータに乗って4階に上がて、やっと目的地に着いた。

 警備の厳重なことに驚かされた。テロ対策なのであろうが、他の国の領事館などは、どこもここまで厳重ではないだろう。ビルの中の一部を借りている国のもあるし、領事館でその国のPRの催し等をしている所もある。このアメリカ領事館も、昔はもっとオープンで、資料の検索などにも広く利用されていたと思うが、世知辛い世の中になったものである。

 4階でエレベータを降りると、小さな広場になっており、奥に三つ窓口があり、それぞれにChck InとInterviewとPaymentと書かれ、Check Inの窓口には何人かの行列が出来ていた。ここでも、職員のいる窓口の中と外は厳重に隔離されており、通路は厳重にロックされている。書類のやり取りも、全て窓口のガラスの下のスペースを滑らせてする様になっており、窓口以外の連絡はマイクだけである。

 ビザを貰うだけの様な簡単な手続きだけの人たちは別のフロアで処理している様なので、この4階に来た人たちはそれぞれに色々な要件で来ている様であった。小さな子供を連れた家族が多く、いつもそうだと見えて、子供が遊べるようなスポンジで出来たブロックを組み合わせてようなものが真ん中に置かれていた。

 興味を惹かれたのは、家族連れが3〜4組見られたが、どの家族も女性の方は全て日本人で、男性はアメリカ人ばかりの構成だったことであった。どの来訪者もそれぞれに、多様な要件らしく、ぽつぽつと順不同に呼ばれるのを待って、退屈しながら順番を待っている様であった。来訪者同士が子供の仲介で、仲良く会話を交わしているような場面もあった。

 家族連れ以外にも夫婦連れもいたし、男性単独の人たちもいた。皆それぞれに用件も違うのか、呼ばれる時間も色々だし、仕事がらみで、何からちがあかないのか文句を言っている人もいた。それぞれの問題に、それぞれに対処するためにやってきている人たちばかりで、それぞれの人生模様の一面を見る様で、興味深く観察させてもらった。

 大分待たされた挙句やっと呼ばれたと思ったら、先ずはお金を払うことであった。それから更に時間が経って、ようやく領事か、そのアシスタントかとの窓ガラス越しのインタービューで、4人がサインしてやっと全てが終わった時には、もう昼休みの時間になっていた。

 長い半日であったが、コロナで単調な日々の続く中で、珍しい体験をさせてもらった貴重な機会となったことを感謝している。

 

路傍の草花

 足が悪くなり仕事を辞めたところで、コロナが流行って、遠くへ行く機会が減り、足の訓練のこともあるので、もっぱら近くを散歩する機会が多くなったこの2〜3年である。

 以前に仕事で市内を歩いていた時には、仕事の予定もあり目的地に向かって急ぐので、歩いていても周囲の景色に注意を払う機会も少なかった。

 ところがもっぱら家の近くを散策する様になると、急ぐ用もないし、足が悪いのでゆっくりとしか歩けない。所々で一服もしなければならない。自然に周りの景色をゆっくり眺める機会が増えた。

 それに、市内と違い、山あり川あり、森もあれば田畑もあるし池もある。神社やお寺もあるし、お城や古墳もある。いろいろな眺望も楽しめる。ゆっくり歩くと、自然と路傍の草や木も目に入る。つい足を止めて眺めることにもなる。

 今まであまり気にも留めていなかった場所に思わぬ花が咲いていたりして、ついその花の名前まで調べたりすることにもなる。街路樹などでも、トキワマンサクサンシュユビョウヤナギアオダモなど散歩の途中で見て覚えたが、年のせいか、すぐに忘れて「あれなんだっけなあ」と女房に聞かなければならないのが残念である。

 昨年は近所の家の垣根に美しく咲いていたモッコウバラを知って、花屋さんに行って苗を求め庭に植えた。今年はまだ小さく、少し花が咲いただけであったが、将来が楽しみである。

 最近覚えたものの一つはヒルサキツキミソウがある。よく散歩する川の堤防の遊歩道の端の舗装部分と堤のコンクリート壁との僅かな隙間から生え、可憐なピンクの花を咲かせている。こんな所からよくもこんなに沢山生えたものだなと感心させられる様な生命力を持った草花である。それが何メートルにもわたって並んでピンクの花を咲かせてているのである。

 昨年、あまり可愛いので、2−3本引き抜いて家に持って帰ったが、今年は我が家でも咲いている。元の堤防のそれらも、今年は去年よりも勢いを増し、長さも長く続き、堤防の道の反対側にまで広がって咲いている。

 これまで名前も知らなかったが、娘が調べてくれて、ヒルサキ月見草ということがわかった。外来種で、またの名をピンクレディとも言うそうである。(上図参照)

 また我が家の2〜3軒先の家が、昨年春頃から空き家になったままであるが、こちらにも、その家の前の道路脇の舗装と塀の敷石との僅かな線状の隙間から、草が生えて成長してきていたが、春の季節とともに成長し、仲間も増やして、今ではずらりと並んで花を咲かせている。

 これはどうもハルジオン、ヒメジオンの類の様である。この二つはよくある外来種の雑草の様だが、同じ頃に咲き、よく似ているので「ハルジオンとヒメジオンの見分け方」などがグーグルの図鑑などにも載っている。

 ハルジオンの方が少し早く咲くが、こちらの方が菊の様な花弁の数が細くて多く、少し上向きになっており、茎が中空で、葉の付け根が茎を 少しつ包み込む様になっているとか書いてあるが、それを当てはめてみると、どうやらこれはハルジオンではなくて、ヒメジオンのようである。こちらの方が長く咲いている様である。 

 歳と足とコロナのために、繁華な街や遠方には行けなくなったが、近くを散策する機会が増えたお蔭で、自然に親しみ、木や草の花を眺める楽しみが出来たことを感謝せねばなるまい。

 追記: こんなことを書いた後、今朝猪名川の堤を散歩すると、もう6月の半ばなので、ヒメジオンであろうが、堤防に沿って、これまでになく勢いを増して、ずらりと並んで何処までもというほど続いていた。小さな花で目立たないが、これだけ揃うと結構美しい。 

 

闇に葬られた歴史

 裏の世界のことは我々一般の人々には分からないので、勝手に想像するよりないが、普通の常識的な成り行きとは違った、思わぬ方向に政治や社会が進み、どうしてなのかと怪しむことが時々起こる。

 戦後間もなくの日本ではどうも、それまでの普通の常識では考えにくい事件が度々起こり、どれも結局うやむやのうちに済んでしまった。戦後のある時期にだけ、当時の国鉄で列車の故意による暴走事件が繰り返されたり、国鉄の総裁が死後轢断で発見されるというような事件が起こった。

 結局不明のまま忘れられてしまったが、あまりにも日本離れのした事件が多かったので、占領軍の関与が疑われたままとなった。

 また奇妙だったのは、敗戦直後に戦争犯罪人として捉えられて、他の旧大臣や政治家達と共に巣鴨送りとなっていたのに、戦時中の大臣であり、旧満州国の経営にも主導的役割を果たした岸信介が、何故か無罪放免されて巣鴨から出ただけでなく、末には総理大臣にまでになった経緯については誰も語らないが、アメリカ政府との取引があったとしか考えられない。岸はアメリカのCIAの手先になったという噂もあった。

 そこから想像すると、戦後の占領期に結ばされた日米安保条約やそれに付随した日米地位協定だけでなく、もっと影で、日本はアメリカにがんじがらめに締め上げられ、絶対服従のような関係を押し付けられて来てしまっているのではなかろうかと疑わざるを得ない。

 その後も、田中角栄が総理大臣であった時には、角栄アメリカへの断りなしに中国との国交回復をした途端に、ロッキード収賄事件を暴露されて収監されるということがあったが、あまりにも出来過ぎた経緯なので、やはりアメリカの影の手が動いたのではないかと想像させられたが、これも真実は有耶無耶のままに葬り去られてしまっている。

 その次には鳩山・小沢の民主党政権が出来、沖縄問題で日米安保に踏み込んで、基地をせめて沖縄県外に持っていこうとしたことがアメリカの逆凛に触れ、たちまち潰されてしまったこともあった。ここでもこの国では政府よりも強い力が政府さえ倒してしまうことが示された。

 この国では、日本国憲法より日米安保条約の方が上位の法であり、日本の官僚は定期的な米軍との協議で、国内の政治より対米従属関係が優先されている現実を見れば、これまでの上記のような推論もあながち否定することは出来ない。

 現在までの沖縄の基地問題や、本土における数々の米軍優先の政治から見ても、日本が米軍の軛きから容易には抜け出せない仕組みになっていると思わざるをない。

 哀れな祖国よ!独立出来るのはいつのことだろうか?

電動自転車

 最近の若いお母さん達が、子供を幼稚園や保育所に送っているのを見ると、殆どの人が自転車に子供を乗せて連れて来ている。車は小廻りが効かないし、道を塞ぐ。手をとって歩いて来るには時間がかかり過ぎる。自転車ぐらいが一番手っ取り早いのであろう。

 つい何年か前ぐらいには、普通の自転車の前と後ろに子供を乗せた3人乗りの危なっかしい運転で、事故を起こしたりして問題になったことなどもあったが、今や自転車も良くなったのであろう。若いお母さん達は殆どの人が、それ用に造られた電動付き自転車を利用しているようである。

 電動なので馬力があり、少々重くても構わないので、前や後ろの子供用の席は殆ど幌で覆われているし、子供を乗せていても坂道でも、楽々と上がって行く。前と後ろに二つも幌のついた3人乗りの自転車も見かける。

 昔と比べて、ずいぶん楽になったものである。以前の普通の自転車では、後部の荷物台と、場合によったら前のサドルの前にくっつけた子供用の椅子にまで子供を乗せて、お母さんが坂道を息を切らし、汗びっしょりになって自転車を押して登って行く姿などが見られたものだが、電動なら、かなり急な坂でも子供を乗せたまま、スイスイと上がって行ける。

 私は歳をとってから、もう自転車に乗っていなが、足が悪くなり、遠道が疲れ易いので、それを見て、電動自転車を買ってはと思ったこともあったが、どうも慣れないと危ないらしい。最近は低床の三輪車で電動補助のあるのも売り出されているようだが、それでもやはり車道を走らなければならないので、危険だと言われて諦めた。

 その頃、電動自転車の値段を見たらホームセンターで15万円ぐらいしていたので、最近のお母さんたちは、子供を保育園や幼稚園に預けるために、自転車だけでもお金がかかるのだなあと思ったものであった。

 ある時、猪名川の河原公園で子供を連れたお母さん達が4、5人集まって、ピクニックの様に子供を遊ばせながら集まって楽しんでいたが、その近くにはお母さんの数だけ、幌のついた電動付きの自転車が並んでいるのが見られた。

 また、いつだったか、幼稚園の前を通ったら、退け時分だったのか、それとも何かお母さんの集会でもあったのか、垣根の外の道路に、お母さん達の自転車が20台以上も、整然と並べられていたが、見るとそれらは全て電動付きの自転車であった。もう今時はバッテリーのついていない普通の自転車などで子供の送迎などは、恥ずかしくて出来ないのではないのではなかろうか。

 最近は子供送迎用の自転車ばかりではなく、普通の自転車でも電動付きのものが多くなってきた。駅やショッピングセンターなどに停めている自転車を見ても、電動付きのものが多くなった。ただ駐輪中にバッテリーだけ盗まれるような事故もあるようである。

 それでも電動のあるなしの違いは大きい。坂道が多い池田などでは殊にそうである。外から見ているだけでも、違いは歴然としている。坂道で自転車を降りて、息を切らしながら自転車を押して上がるのと、電動でスイスイと上がれる違いは大きい。

 坂の上に住んでいる年寄りなど、車の免許を返納した後などには、電動自転車があれば随分違うのではなかろうか。買い物に行くだけでも、手ぶらの下り道は良いとしても、買い物をぶら下げて坂を上って帰る時には、全然疲れ方が違うのが分かるであろう。ただ車の運転が怪しい歳頃には、電動自転車も危ないかも知れない。

 ある時、猪名川の河原公園を散歩していたら、ある区画で老人達がゲートボール押していた。どこかの地域の大会ででもあったのか、かなり大勢の老人が競技をしていたが、そのホームベースに近い所に老人達が乗って来た自転車が何十台も停めてあった。ところが見ると、幼稚園の前とは反対に、電動バッテリー付きの自転車は一台も見当たらなかった。

 電動自転車は今でもまだ若い人達のものの様である。力の衰えた老人こそ電動自転車が助けになるであろうが、老人は新しいものには縁が薄いためか、危険だからか、老人で電動自転車に乗っている人はまだまだ少ないようである。

 

 

 

老躯の衰えかた

 父親が九十四歳でなくなった時、随分長く生きたものだな、自分はそこまで生きられるだろうかと思ったものだったが、いつの間にかもうその年齢に達してしまった。

 戦争の嵐を潜って来た私は、若い頃は四十二歳の厄年まで生きれれば十分だと思っていたが、カミサマはなかなかそんなことを許してくれなかったようだ。もっと浮世の苦労をしてこいとおっしゃったようである。

 特段、健康に注意した生活をして来たわけでもなく、好きなように生きてきた方だが、どうも寿命に関係する一番大きな要素は遺伝的なことのようである。長寿の研究などをしている人もいるが、目標はせいぜい百歳ぐらいで、寿命は長ければ長いほど良いものでもない。

 問題は長さではなく、内容であろう。寝たきりになったり、認知症になって、いつまでも死ねないのは本人が一番困るし、ゆとりのない社会では、その負担が問題となる。

 とは言っても、年とともに体が衰えていくのは、いわば生理的な現象で致し方ない。年と共に次第に若い時のようにはいかないことを感じさせられる。若い時は何でも素早くこなせたものが、何でもゆっくりしか出来なくなって行くのをどうしようもない。

 食事も早食いで誰よりも早いのが自慢でさえあったが、今では、家族で食事をしても、どうしても終わるのが一番遅くなる。道を歩くのも、昔は人を追い越して歩いていたのに、いつの間にか皆に追い抜かれるのが普通になってしまっている。

 老眼も進むし、耳も聞こえ難くなる。匂いも鈍くなり、味覚も悪くなる。筋肉の萎縮や衰えも進む。八十歳代の時に同じ年の友人と一緒に温泉に浸かった時、友人の尻の筋肉の衰えに驚かされたことがあったが、今や己も同じ運命にある。

 こう言った経年的変化とも言える老化の進み方の上に、長い生活の中で繰り返してきた事故や病気といった個々の出来事も、少しづつであっても、傷跡のように一段一段と、老いを進め、その両者の蓄積が老化を進めることになるのであろう。

 若い時の帯状疱疹の後も未だに微かに残り、その部分の皮膚の触覚が鈍くなっている。五十代で起こった左目の黄班浮腫の傷跡は今も中心暗転として残り、偏側視野障害となり立体視が効かない。  

 年とともに、小さなアクシデントも増えて来ているようで、八十七歳に心筋梗塞になり、退院直後に副交感神経反射による失神で再入院。九十歳で階段で滑って転倒、救急入院。以来夜間の行動制限、外での飲酒禁止にしてきたが、九十一歳の暮れには、脊椎管狭窄症で急に間欠性跛行となり、仕事を止めて、一年足らずで何とか回復はしたが、以来、念のための杖歩行になっている。

 更には、九十四歳で突然排尿失神を起こしたかと思えば、4−5日後には悪寒戦慄に続く不明高熱が起こり、幸いコロナではなく4−5日で回復したというようなことも続いている。

 どうもアナログな経時的な徐々に進む老化の進行に、繰り返される種々のエピソードによるデジタルな老化が積み重なって老化が進んでいくようである。いつまでもつか。成り行きに任せるより仕方ないであろう。