菅首相退陣

 8月3日の午後、突然自民党の臨時役員会で、菅首相が次の総裁選に立候補しない、すなわち首相を辞めて退陣することが告げられた。

 この首相は、長い間、官房長官を務めていたので、安倍前首相が突然?辞めたために、担ぎ出された訳だが、前にも書いたように、この人はもともと首相の器ではない。

 首相退陣と聞いて先ず思ったのは、これで、あの憂鬱な顔を見なくて済むようになるのかということであった。安倍内閣が長く続いて、あの傲慢な、怖さを知らない金持ちのぼんぼんの顔を嫌というほど見さされて、いささか食傷気味であったが、変わって出てきた菅首相は、初めから陰気な顔で、目が据わっておらず、どう見ても、番頭であっても、主人にはなれない人物としか見えなかった。

 いわゆる「政治屋」で蔭に回って、いろいろ画策したりすることは得意であっても、首相として国民を惹きつける魅力が無さ過ぎるし、国民に向かって話しかける言葉を持たない人である。しかも、就任後の第一声が「自助、共助、公助」とくれば、この人に政治を任せて良いのかなと多くの人が思ったに違いない。

 事実、その後の成り行きでも、コロナ対策一つを見ても、第一波で、まだ落ちつかぬ中からGoTo策を続けて失敗し、ワクチン外交で出遅れ、多くのオリンピック開催中止の声に、最後までおし黙った挙句に開催を強行して、オリンピック開催中からコロナ感染の爆発的拡大を起こすなど、見通しの甘さから、分かりきった裏目の結果ばかりを繰り返してきた。

 自分の政権運営についても、初めの思惑では、五輪反対の意見が強くても、五輪が始まれば国民は熱狂するだろうし、ワクチンの効果も次第に出てくるだろうからと踏んでいたようであったが、これらも事実は裏目裏目に出てしまった。

 こういう結果が支持率の低下をどんどん進め、自民党内からも不支持の声が上がり始め、この人らしく色々な党内の工作を試みたが、それも全て失敗に終わり、とうとう身を引かざるを得なくなったもののようである。

 一年ばかりの短い期間だあったが、ご苦労さんなことでした。後はどうなるのか。これを機会に、秋の総選挙で自民党が大敗し、政権交代まで持って行ければ良いが、果たしてどうなることやら・・・。このまま自民党が何とか政権を維持したところで、誰が次期首相になっても、どう転んでも、コロナの見通しも明るくないし、近い将来にあまり期待出来そうな材料も見当たらない。ケセラセラと様子を見ていくより無さそうである。

 

 

五十円の楽しみ

 今時、たった五十円でひと時の楽しみが得られることなど、あまり考えられないのではなかろうか?

 それがあるのです。最近、池田の商店街にあるコンビニの店先に、一個100円のグレープフルーツが並べられているのを見つけた。グレープフルーツは昔からのお気に入りの果物なので、スーパーなどでも時々買ったことがあるが、私の常識では、大体120〜130円ぐらいのことが多く、105円などと書いてあると今日は安いなといくつも買った記憶がある。

 ただし、最近は高齢とコロナのため殆どスーパーへも行かないので、それも随分古いこととなっているが、女房の話でも最近でも、グレープフルーツはスーパーなどでも、100円などでは買えないそうである。

 コンビニの方がスーパーよりも安いこともあるのだなあと思い、見かけも皮が薄く、ジューシーそうなので、早速買って帰ったのだが、このグレープフルーツがまた本当にうまいのである。思った通り、皮が薄く、ジューシーで、味が豊かなのである。

 昔、1961年に初めてアメリカへ行った頃には、グレープフルーツはまだ日本ではあまり知られておらず、その時に初めて憶え、以来、私はグレープフルーツのファンとなり、帰国後もずっと、春先から夏にかけてはなくてはならない食後の果物になってしまったのである。

 食べ方も決まっており、ふたつに切ってハーフグレープフルーツにし、グレープフルーツ用のナイフで皮の内側を身に沿って円周状一回り切り込みを入れてから、砂糖とウィスキーをかけしばらく浸み込むのを待ってから食べることになる。

 スプーンで、切られた半身から、一袋づつ取り出して食べ、次いで、皮のお椀の中に残ったジュースをスプーンで掬って啜り、次いで、壁面に残った身を潰して、それを掬って食べるというのが私流の食べ方である。

 グレープフルーツは何と言っても、そのジューシーな汁の豊かさが命で、実を取った後の汁が大きい目のティ・スプーンで10杯、さらに周囲の身を削った後の汁が10杯と、充分にあるのが、「十、十、ジューシー」と、美味しいグレープフルーツだということになる訳である。

 買う前に如何にジューシーかを外見から見分けて買うことが必要なのである。皮が薄くてジューシーなものも、経験を積むと、ある程度は分かるものである。ジューシーなものだと、食べた後に残ったお椀状の皮を絞っても、なおスプーンに一杯や2杯の汁が得られるものである。

 ここまで、充分楽しんで食べて、これが一個100円だから、半分で僅か50円というのではたまらない。他にたったの50円でこれだけ楽しめるものがあるだろうか。大袈裟に言えば、長生きしていれば、こんな食後の楽しみにも巡り会えるというものである。

論語読みの論語知らず

 戦前、まだ私が子供の頃の教育は、先ずは何でも暗記させて覚えさせることから始まっていたようであった。教育勅語など子供が理解するのは無理だと考えられていたのか、その易しい解説などなしに、訳もわからないままに祝祭日がある毎に、全生徒が講堂に集められて聞かされた。

 「論語読みの論語知らず」という言葉もあるぐらいだから、昔は何でも先ずは覚えさせてそれから理解させるといっ順序が多かったのであろうか。

 今と違って祝日といっても一日まるまる休みではなく、朝には定時に学校へ行って講堂に集まり、式典に参加して、それが済んでからが自由な休日なのであった。式典といっても、校長の挨拶と教育勅語を聞くのが主なことであった。

 教育勅語天皇の言葉を巻物に記したもので、天皇から各学校が預かっているようなっものとされ、平素は奉安殿に納められており、二宮金次郎銅像と並んだ小学校を象徴するセットのようなものであった。その前を通る時には、お辞儀をするよう言われており、校長は学校が焼けても、勅語は守るよう強制されていたようであった。

 祝日の日には、講堂に集められた全生徒の前で、校長が厳かにに取り出した巻物に書かれた教育勅語を恭しく朗読して皆に聞かせ、生徒たちはその間は直立不動で頭を下げてじっと聞いていなければならなかった。

 教育勅語は”恐れ多くも”天皇のお言葉なので、失礼があってはならないというので、祝日の前日には全生徒が講堂に集められ、式の予行演習まで行われていた。

 予行演習の時は教頭先生が指揮を取り、勅語の初めの部分「朕思うに」とだけ言って、皆に最敬礼させて、その様子を見、「そこの子、頭が高い。もっと頭を下げて」と声が飛ぶ。担任の先生も参加しているので横からの注意も入る。

 予行演習の時は、こうして始まり、間を飛ばして、やがて「御名御璽」という声がかかり、それに従って、もう一度、一斉に最敬礼をしてから頭を上げることになる。皆の出来栄えによっては2回、3回と繰り返されることもあった。

 そして本番の時には、来賓もいるので先生は余計に緊張するが、生徒の方はそんなことは知らない。勅語の意味など分からない。予行演習通りに、また頭を下げて、じっと我慢する。退屈するが喋るわけにはいかない。時々目立たないように、少し頭を上げて周囲を見渡したりして、もう早く終わってくれないかと思いながら我慢する。

 ようやく御名御璽と聞こえる。何のことやら判らないが、これが終わりのサインなのである。これでやれやれ、最敬礼をして頭を上げる。思わずあっちでもこっちでも鼻を啜ったり、咳をするのが聞こえる、これで終りだ。あとは家まで飛んで帰って、一日休みだということになった。

 大体、勅語というものは権威を持たすためか、難しそうに書かれているのである。第一「朕惟うに」と言ったところで、子供には何のことか分からない。どうして自分のことを「チン」だなどと言うのだろう。こっそり隣の子に天皇が朕というなら、皇后はどういうか知っているか、などと言ったませた子供もいた。

 その後の教育勅語の内容などは、子供にとっては殆ど意味不明。「君に忠、親に孝」ぐらいはわかっても、あとは先生が解説してくれたこともない。最後の御名御璽は終わりのサインとしてはよく分かっていたが、それが天皇の名前と印鑑だということはかなり後まで気がつかなかった。

 しかし、子供の記憶力は馬鹿にならないもので、この教育勅語も、意味がわからないまま、多くの子供が空で言えたものであった。論語読みの論語知らずのようなものだなと思ったのは、もっと後になってからであった。当時、先生たちから勅語の逐語的な易しい解説を聞いた覚えがないが、果たして説明があったのであろうか。

 子供に記憶力といえば、当時は万世一系天皇ということで、神武天皇を初めとする歴代天皇の名前を続けて諳んじるようにさせられたが、全然意味のない言葉の羅列なのに、結構多くの子供たちが言えるようになったものであった。

「神武、すいぜい、あんねい、いとく、こうしょう、こうあん、こうれい、こうげん、かいか、すじん、すいにん、けいこう、せいむ、ちゅうあい、おうじん、仁徳・・・・・・」と息を継ぎ継ぎ言って、やっと「124代今上陛下」まで来て、やれやれと思ったものであった。いつも、最後だけ今上陛下というところに何か違和感を感じたものであった。

 当時の教育では、こんな風に何でも暗記させられることが多かったような気がする。

「自宅療養」

 コロナが流行してから「自宅療養」という言葉がやたらと使われているのが気になって仕方がない。誰しも、変だと思いませんか。

 コロナ(Covid19)は間違いなく、世界中に拡がってしまった感染症です。感染症に対する対策は、薬も何もなかったペストの時代から、先ずは感染者を一般の人々から隔離して、病気が周囲の人たちに感染するのを防ぐことが第一の原則であることには、誰もが認めることでしょう。そのためには、先ずは、それまで自宅にいて普通の生活をしていた感染者を、社会から切り離して隔離することです。こうして少しでも病気が広がらないように手を打つた上で、隔離された病人の治療を行うということになるわけです。

 ところが、今回のコロナの場合、なぜか「自宅療養」というカテゴリーが早くから言われ、軽症の場合には感染しても、そのまま自宅に留め置かれる人も出てきました。自宅療養マニュアルという本まで出ていました。

 急に感染症が広がり出すと、当然病院の病床が不足することになりますので、入院出来るようになるまで、自宅で待って貰う自宅待機の期間があるのは仕方がないでしょう。しかし、感染症は放っておけば周りの人に病気をうつし、病気を広げることになるので、これは最低限にすべきです。

 既存の病床数が足りなくなれば、病床を増やすとか、やりくりしなければならないが、それでも足らない時は臨時の病棟を作ったり、それも出来ない時には、せめて隔離だけでも出来るように仮の隔離施設を造って、患者を収容するのが伝統的なやり方でした。

 今日のように独り住まいの人が多くなれば、自宅でも隔離出来る場合もあるでしょうが、数が多くなれば、離れ離れの各自宅を訪れ患者の容態を観察し、処置などするのは不便で効率が悪くなります。それに家庭内感染も起こりやすいものです。 

 纏まった臨時の施設に収容し、そこで纏めて面倒見る方が効率も良く、急の病変にも対処し易いでしょう。これまでは、歴史的にも感染症に対してはこのような処置が取られてきたものでした。

 ところが、今回のコロナの感染拡大の時に限っては「自宅療養」という言葉が盛んに言われています。近所の医師が訪問して診療しているようなこともあるようですが、パンデミックのような時には効率が悪いし、多くの場合には、自宅療養と言っても、実際には「自宅待機」に過ぎないようです。

 「自宅療養」の実態は「自宅待機」か「自宅放置」であり、それを誤魔化して「自宅療養」と言っているものです。戦争中、自軍の「全滅」を「玉砕」、「退却」を「転進」と言い、戦争に負けたのに「敗戦」と言わずに「終戦」と言い、「占領軍」を「進駐軍」と言い換えて使ったのと同じです。どうしてこう誤魔化さねばならないのでしょうか。

 国民はあいも変わらぬ政府の言い換えに誤魔化されず、家族に感染を拡げる前に、「自宅療養」の実態を理解し、政府に「自宅放置〜自宅待機」を廃止し、緊急に隔離施設を作り、先ずは、そこへ感染者を全て収容し、そこで判別して、入院なども決めるようにすべきでしょう。

 そうすれば、隔離が完全に行われるし、最低限の治療も受けられるし、今では最早パンクしている保健所の業務も効率よく進められるのではないでしょうか。

今や手遅れ気味ですが仕方ありません。 大急ぎで急遽、大規模な隔離設備を作るべきです。

 

私にとっての日の丸・君が代

 8月18日の朝日新聞に「沖縄で燃やした日の丸」と題して、1987年10月沖縄であった国体の会場に掲揚されていた日の丸を、引き下ろして火をつけ、逮捕され、器物損壊の罪で、懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受け、今は僧侶になっている知花昌一氏へのインタビュー記事が載っていた。

 氏は1948年生まれで、沖縄が戦後米軍の占領下に置かれ、日本復帰を望んでいた頃は、日本復帰を願って日の丸が憧れの象徴であり、自ら日の丸を買って持っていたそうである。

 ところが、復帰しても米軍基地はなくならず、ベトナム攻撃の拠点として使われていたことに加え、自分の出身地である読み谷村で、祖父が殺されたことを知り、大勢の住民が集団自決したガマの調査に参加し、沖縄人が大日本帝国から差別されながら、政府や軍部の教育を押し付けられた上、本土防衛の捨て石にされたことなどを学び、その象徴が日の丸であったことを知ったのであった。

 当時は国が一方的に日の丸を国旗として、君が代を国歌として復活させ、卒業・入学式に強制させようと学校現場へ介入を強めた時期であり、読み谷高校でも、卒業式で女生徒が日の丸を外して捨てるという事件もあり、本人の事件も、大人として自分の主張の責任を取るために行った行為であった由である。

 今も、権力に弾圧され流罪になっても、決して迎合しなかった親鸞の生き方に惹かれて僧侶となり、命に関わることこそ譲れない。日の丸を焼いたことも、人間として間違ってはいなかったんじゃないかと思っているそうである。

 これを読んで、私も全く同感である。私の場合には、戦中の経験が大きい。皇国である大日本帝国神州不滅の三千年の歴史、萬世一系の天皇制、忠君愛国を信じ、身は鴻毛に等しく、陛下の為には死して国を守ると教えられた中で、純粋培養されたようなもので、その象徴が君が代であり、日の丸なのであった。

 敗戦後しばらくは、日の丸も君が代も見たり聞いたりしないで良かったが、いつしか、国民の同意も得ないまま、政府が勝手に君が代、日の丸を復活させて国民にそれを押し付け、いつの間にかそれを定着させてしまった。

 しかし、私は今なお、どうしても感情的にそれについて行けない。君が代を聞き、日の丸を見ると、嫌な過去が蘇ってきて、生理的に拒否したくなるのをどうすることも出来ない。戦争の後遺症であろう。

 国旗も国歌も国民が皆でそれを決めて、それを用いるなら、それに反対するものではない。しかし、誰にも好き嫌いの感情は避けられない。私の場合には、国旗や国歌はあまりにも、自分が否定している戦前戦中の生活体験に強く結びついいるものだから、生理的に排除したくなるのを止められない。

 最近は大分慣らされて来たが、それでも、今なお朝テレビが始まる時に、日の丸が出ると、思わず目をそむけるし、追悼式などで、君が代が流れ出すと、スイッチを切って終わるのを待つことになる。病院の院長をしていた時には、式典で君が代を歌う時には、口だけぱくぱくさせて誤魔化していた。

 非国民と言われようと、生理的に体が反応するのだから仕方がない。戦争で受けた傷跡は大きい。日本人じゃないと言われても、私の方が古くからの日本人であるのをどうしようもない。

 私の希望は、新しいもっと素晴らしい国歌を作り、希望のある新しい国旗を作って貰いたいが、これは一億二千万の出来るだけ多くの国民が納得する国旗や国歌を作って貰えば良いがと考えている。

 戦前に道を踏み誤り、大きな被害を受けた傷跡につながる国旗や国歌が嫌なだけで、希望に満ちた新しい国旗や国家は大いに歓迎するものである。もう死ぬまで私の心も希望も変わらないであろう。

奈落の春の日記

 1945年の春に、希望に燃えて憧れの海軍兵学校に入ったが、僅か4ヶ月で敗戦となり、意気消沈して大阪へ戻り、戦後の混乱に巻き込まれ、心の支えであった神も仏も失い、途方に暮れていた一年後の日記が見つかったので、その抜粋を残しておきたい。2日だけの日記であるが、当時の1年間の急変した世の中での我が心情がよくわかる気がする。

1946年4月9日

 敗戦以来人々が謀略に乗せられていることは誠に嘆かわしいことなれど、父まで遂に軟弱になってしまった。老人の故なるかな。余の人全てが如何ならんとも己は己の信ずる道を進む。即ち、千万人行けども我行かずの気概こそ日本男子の意気と信ず。国の為、君の為に闘う。

 国のため世のため何か惜しからん

         捨てて甲斐ある命なりせば

の歌の如く、一生を君と国とに捧げてこそ、生き甲斐があるのではないか。そうでなくて、何が故に辛き憂き世を生きて行かねばならぬのであろうか。

1946年4月10日

 去年の今日こそ、吾人の絶頂の日であった。海軍兵学校入校式であった。それまで、只夢にのみ憧れていた兵学校生徒。それが現実となって現れし喜び。その喜びはいまだに忘れることが出来ない。我が胸は希望に溢れ、正に意気天を衝く趣きがあった。

 然るに、一年後の今日は如何。敗戦の辛苦を日々身に受け、臥薪嘗胆、以って復仇を誓って、真っ暗な中を、そこへさす一筋の光明を見出すべく努力しているのだ。

 前者を朝日に輝く桜の花に喩えれば、後者は山蔭の薄暗き所の草葉に埋もれた名も知れぬ、何人にも省みられることもなき、小さい花とでも言うことができよう。

 しかし、そんな小さい草の中に埋もれた花でも、いつ人に見つけられぬとも限らない。

  踏まれても根強くしのべ道草の

          やがて花さく春の来るまで

 この歌の如く、如何に踏みにじまれて、花は落ち、葉はちぎられても、根さえしっかりしていたならば、春には自然に芽を出し、また花を咲かせるであろう。

 

コロナ感染大爆発の責任

 とうとうコロナ感染が大爆発してしまい、医療崩壊が現実のものとなり、コロナにかかっても自宅で死ぬ人まで出てしまっている。それにもかかわらず、病院への入院などは、未だに保健所一本で調整することになっているが、今やこのシステムもパンクしてしまっている。

 政府は感染の爆発を見て、専門家にも相談せず、軽症、中等症は自宅療養を原則とすることを決め、反対の声の押されて変更したが、未だに大枠はそのままにしている。

 感染症に対しては、先ずは隔離が原則であるが、自宅で隔離出来るのは特別な場合に過ぎない。コロナ感染が起こり始めた頃から、宿泊療養などと承してホテルなどを買い上げ、隔離施設を設けたが、何故それをもっと活用しないのか。今回も、あまり利用されていないようである。

 隔離施設に総ての感染者を収容して、そこに医療スタッフを派遣すれば。そこで最低の医療的観察も出来るし、重症患者の選別をして、入院の調節をすれば、保健所に頼らなくても、スムースに入院の調整も出来るであろう。空いたオリンピックの施設など、すぐにでも隔離施設に利用出来るのではなかろうか。

 今は総力を上げて、この感染爆発に立ち向かう時である。しかし、こうなることは、初めから余りにもよく分かっていたことである。先手を打って適切な対策を立てておくべきであったのである、オリンピックをやめてコロナ対策に全力を尽くせという声も強かったのである。時間も充分あったのに、返す返すも残念である。

 菅首相は今もオリンピックは今回のコロナの爆発に関係ないとする姿を続けているようだが、仮にオリンピックが直接関係がなかったとしても。予め国論を二分する程の反対があったにもかかわらず、それを無視し、コロナ感染の爆発への十分な手を打つことなく、ことを進めて来たことの重大な責任は逃れられないであろう。

 今回の感染爆発がオリンピック開催に直接は関係がなかったとしても、コロナの感染が始まってから一年半以上も経ち、その間、何度も感染の山を迎えているので、多くの国民のコロナに対する慣れもあるし、その上、夏は夏休みの季節で、従来より毎年決まって、行楽やお盆での里帰りなどで、人流の多くなる季節なのである。

 こういう時に、一方で一所懸命に人の移動を控え、外での飲食を避け、家に止まれと言っても、ただでさえ効果が出にくいのに、片方で、オリンピックだといってお祭り気分を煽り、世界中から大勢の人を集め、国民を熱狂させる一大スポーツイベントを行うという、全く逆のことを宣伝し、実行するとなると、そのムードだけからでも、人の心が抑制的とは全く逆の方向の働くことは明らかである。

 いくら菅首相がオリンピックは関係が無いと否定しても、それを肯定する人の方が少ないであろう。それに、オリンピックのために、予想出来たコロナの感染爆発に対する先手の対策が十分でなかったことも非難されるべきであろう。

 今は、直面しているコロナの急拡大、医療崩壊を防ぎ、人の命を守ることに全力で立ち向かう時であるが、予め多くの国民が予測し、心配していたことを無視して、コロナ対策の手を抜き、オリンピックを開催して、この医療崩壊を招いたコロナ感染の大爆発をきたし、国民の命を犠牲にした政府の責任は厳しく問われなかればならないであろう。

 更に、これだけ医療崩壊まで見られる中で、パラリンピックまで強行し、おまけに、教育的に意義があるとして児童の観戦まで実行しようとするに至っては、IOCに脅迫されているのかと疑われるぐらい異常なことである。今は総力を上げて、コロナ対策に全力を上げる時である。