今年はどんな年になるだろうか

 昨年は、今風に言えば私的には、コロナと足で散々な年だったが、足のおかげで仕事を辞められたし、仕事へ行かなくなって、コロナ感染の危険からも遠ざかることが出来た。ただ、老人が出歩いて、コロナに感染したりして、周囲に迷惑をかけてはいけないので、人気を避けて近隣をうろつく他は、殆ど家に蟄居して、大阪市内まですら、一年を通じて1〜2回しか行っていないのではなかろうか。

 一昨年の秋からの脊椎管狭窄症による間欠性跛行は何とか良くなったものの、歩くスピードがてきめんに遅くなり、疲れ易くなって、途中で休みを入れなければ、遠くまで歩けなくなってしまった。他人にどんどん追い抜かれるのが情けない。

 これまで、正月には毎年、近くの呉服神社、伊居太神社、八坂神社の3神社へ行き、帰りに猪名川の堤で、初日の出を見ることにしていたのだが、今年は呉服と伊居太の二社を回り、河原の堤で日の出を見て、帰らざるを得なかった。例年の三社めぐりが二社めぐりになったしまった。残念だが仕方がない。

 今年はもう数えで言えば94歳、女房も88歳の米寿となる。二人揃って元気で、認知症にもならず、お互いの会話が通じ、3度の食事もちゃんと食べさせて貰えるのは有難いことである。無神論者なので、神社へ行っても、お祈りや願掛けなどはしないが、それでも自然には感謝している。

 この歳になると、もう今年は何をしてやろうかなどと、おおそれたれたことは考えないが、自然の成り行きに任せて、周囲にはあまり迷惑はかけないで暮らしたいと思っている。

 それでも、あの戦争を経験していることもあり、もう少しマシな国になってくれないかなという思いは強い。戦後もう七十六年にもなる。五十年ぐらい経てば、幾ら何でも日本も独立国家に戻っているだろうと思っていたが、未だに、安保条約や地位協定で、がんじがらめにされて、従属国のままであるのは何としても情けない。

 内政も目も当てられないことになっている。自己顕示欲ばかり強くて、嘘を平気でついて、自分本位の政治を続けてきた安倍首相がやっと退いたと思ったら、今度は、番頭であっても、およそ主人ではない菅首相のお目見えである。もう自民党にはまともな人物はいないのかとさえ思いたくなる。

 初めから「自助、共助、公助」と言い出すような人に政治家の資格はない。その後も、今度は「嘘」でなく、「沈黙」を武器だと考えているのか、自分の言葉を喋れない首相では救いようもない。 学術会員任命拒否の問題も沈黙のままだし、コロナ対策も年末に東京の感染者が1400人になったことが何より失政を象徴している。

 それでも会見の結果が「マスク、手洗い、三密回避、私からは以上です」では有効な手も打てない。今年のコロナはどうなっていくのか、国民に不安を煽るばかりである。コロナは今年もまだ社会の大きな足枷のまま残るであろう。ワクチンが出来ても、すぐに効果が現れるものではなく、ワクチン全能ではない。GoToや、今年のオリンピックはもう中止にして、コロナ対策にもっとと力を入れるべきであろう。

 初めの頃から言われており、事実中国や韓国がPCR検査の徹底的な利用でコロナ撲滅に成功し、アメリカを初め多くの国でも盛んに利用されているのに、しかも、コロナが自覚症状のない若い感染者からの拡散が多いことが明らかなのに、何故か日本では、未だにPCR検査があまり行われていないのも気になる。

 菅内閣の支持率は急速に落ちているようだが、もう早く辞めて貰い、総選挙でもう少しはマシな政府に変わって欲しいものである。菅首相の発言ではないが、真に「国民のために働く内閣」に代わって欲しいものである。コロナがやがて収束し、菅内閣が総辞職して、選挙で、もう少しはマシな新しい政権が誕生することが今年の願いであろうか。

 

 

コロナとあしで流れた一年

 昨年(2019年)秋に脊椎管狭窄症になり、間欠性跛行に苦しむようになってから、もう丸一年以上経つ。病院でMRIを撮って貰ったのが、確か12月1日であった。あの時は家から病院まで、途中で休み休み行ったものだった。病院が見えているのに、休みを入れて、ゆっくりしか歩けなかった。その時の歯がゆかった気持ちを今も覚えている。

 幸いMRIの検査で、骨には異常なく、靭帯なども正常で、殆ど変化がなかったので安心したが、症状はなかなか良くならない。年が変わってから、もう一度受診して相談してみようかと思い、1月の半ば頃から病院に電話で予約しようとしたが、何度かけても混んでいるのか、再診の電話が繋がらず、特別に急ぐ状態でもないので、またかけ直してみようと思って、延び延びになっていた。  

 ところが、そのうちに突然コロナが流行りだしたのだった。これでは、病院の混み合った外来に行くのは、コロナを貰いに行くようなことになり兼ねない。危険だろうと考えて行くのを中止した。

 歩く方は余計に具合が良くないようで、2月初めに、それまで続いていた労働者の健康相談窓口へ出務する約束をしていたので、出掛けようとしたが、その時が一番悪かった。用意をして家を出たものの、電信柱毎ぐらいに立ち止まって休まなければ、足が痛くなって動けず、とうとう池田の駅までも辿り着けず、途中からまた電信柱毎に休んで、漸くの思いで家まで帰り着いた。仕方がないので電話で約束を断り、それを機会に、迷惑をかけることを恐れて、その後の仕事も辞めた。

 もっと若い時であれば、仕事を辞めても困るし、社会も認めてくれない。仕事を続ければ、感染の恐れも大きくなるところだったが、脊椎管狭窄症のおかげで、仕事を辞める良いきっかけともなったし、結果として、感染を避ける良い手段ともなった。

 足が悪いので辞めざるを得なかったのだが、幸か不幸か、コロナの感染の恐れからも逃れられたことになった。それ以後は、以前にも書いたように、ダブル・スティックを使ったり、シルバーカーを買って、それを押して歩くようになった。年齢のことを考えると、もう元のように歩けるようになるのは無理だろうと思ったが、歩けないと困るので、意識して歩くことは続けるようにした。

 仕事を辞めて時間の余裕が出来、仕事の責任も全くなくなって、1日家にいるので、時間は充分出来た。世間でもコロナのためStay Homeというので丁度よかった。それ以後は、年齢のこともあり、一年間、社会的な活動は殆ど何もしないで過ごしたことになる。

 何もしないで一日家にいると退屈だろうと思うが、そうではない。朝起きる時間が余計に早くなって、3時半には起きる。その頃はテレビで、外国の山や、都会のトラムの旅だとか、クラシックの演奏や、バレーや演劇の舞台などを見せてくれている。それらを見ながら起き上がり、まずは書斎へ行ってパソコンの電源を入れる。

 パソコンが立ち上がる間に、服を着替えてパソコンの前に座り、先ずはメールのチェックから始まり、インスタグラムでアメリカの孫などの動静を見、TwitterFacebookでニュースを見たり、知人の情報を得たりし、それが済むと、今度は自分の Blogを確かめる。そんなことをしていると、いつの間にか忽ち5時を過ぎてしまう。

 慌てて階下へ降り、新聞をとって、朝食。急いで朝食を済ませ、新聞を持ってトイレへ行き、戻ると、次は自己流のストレッチ体操と、それに続いてラジオ体操をし、終われば顔を洗って、新聞の論説などを読んでいると、忽ち7時半過ぎになる。

 この頃になると決まって眠気が襲って来る。ベッドに戻って、30分ぐらいナップをとる。目が覚めて、また書斎に戻り、パソコンの続きをする。やがて、九時となり、わが家のお茶の時間である。ここまでが毎朝のルーチンと言っても良いであろう。

 その後は、日によって違うが、一日のプランとしては、また歩けなくなっては困るので、必ず何処かへ出かけることにしている。その他は、パソコンでブログを書いたり、Photoshopで写真をいじって作品を作ったり、絵を描いたり、変な工作物を拵えたり、何やかやとしたいことは多い。ギャラリーを覗いたり、音楽を聴いたり、買い物をしたり、図書館へ行ったり、映画を見に行ったりと、人混みを避けて外へ行くこともある。そんなことをしているうちに、たちまち日が暮れて、夕食ということになる。

 夕食が済んで、しばし、テレビのニュースなど見ていると、もう寝る時間である。朝が早いので、当然寝る時間も早い。七時のニュースが済めば、もうベッドに潜り、本でも読んでいると、たちまち睡魔に襲われて眠ってしまう。これで、あっという間に一日が終わってしまうのである。

 歳をとると動作が遅くなるし、道具立て一つにしても時間がかかるので、大したことをしなくても、あっという間に時間が経ってしまい、なかなか、ゆっくり座ってテレビを見る時間もない。ましてや、若い時に夢見た、大河のほとりに座って、悠々とした水の流れを、心いくまでゆっくりと眺めながら過ごすようなことは、歳をとっても出来ないものだということをつくづく体感させられている。

 時間は歳をとるに比例して、加速度がつくかのように、あっという間に1日が過ぎ、一週間、一ヶ月が経ち、一年もたちまち過去のものになってしまう。中でも、今年はコロナと足のダブル・パンチのおかげで、特別早く過ぎ去ってしまったように感じる。

 来年は昔風に言えば、私はもう94歳、90代ももう半ばということになる。もう、いつ死んでも後悔はない。成り行きに任せて行くしかないし、またそれが一番良さそうである。

 

VRによる洗脳

 新聞に Vertial Reality(VR)による舞台の話が載っていた。180度撮影出来るVRカメラを2台、人間の眼球と同じ6〜7センチ離して置いて同時に撮影すれば、編集で立体的に見える。これをゴーグルで見れば、普通に外界を見ているのと同じような感じで目の前の高k理を眺めることになるので、見ている人に没入感を与えて、生々しい体験感を与えることが出来るというものである。

 これで見ると、立体感があって、臨場感が強くまさに場面が迫ってくることで、避けられない体感があるようである。自分は動けないで、全て向こう側がアクションを起こしてくるという感覚がすごく面白いそうである。

 まだデータの容量や、長く見ていると乗り物酔いのようになることなど問題もあり、まだ発展途上のようであるが、技術の発展とともに、全く新しい映像の世界が生まれてくることになりそうである。

 しかしこうなると、デジタルの世界でも現実でも、振る舞いを決めるのは自分ではないことになり、繰り返しVRの世界を押し付けられる間に、現実の世界と、デジタルの世界の境界が曖昧となり、現実の世界がヴァーチャルな世界の影響を大きく受けることになるのではなかろうか。

 現在でも多くの映画や演劇が色々な問題を表現し、それを見た観客がそれぞれに感情移入して、それぞれに影響を受けているが、VRに繰り返し晒すことにより、VRがあたかも現実のごとく感じられ、現実とVRを見誤ることも起こりかねないのではなかろうか。

 VRが進むと、それによる影響は、自分ではどうにもならない現実にいる自分が、それに似た自分ではどうにもならないVRの体験を押し付けられ、現実との区別が曖昧になり、両者を誤認しかねない世界を彷徨い、VRに押し流されて現実を誤ることにもなりかねない恐れを感じる。

 恍惚な場面に没入させることを繰り返せば、現実にも無意味なな幸福感や恍惚感を得られやすくなるかも知れない。睡眠療法やその他の精神療法などに利用されると、新しい心理的な治療の領域にも応用出来る可能性も考えられる。

 現実の世界では、人々はいじめやハラスメント、種々の葛藤、恨み、妬みその他、そこまでいかなくても、色々なシチュエーションで悩みを抱えているものである。現在でも、多くの映画や演劇が色々な問題を表現し、観客はそれぞれにそれに対応しているが、VRが進むと、その影響はこれまでよりはるかに現実と近くなるだけに、大きくなるであろう。

 良いことばかりとは限らない。VRで繰り返しいじめられたり、従順さを強いられていると、現実社会でもそれに慣れさせられ、当然として受け容れさせられてしまうことにもなりかねない恐れもあろう。

 もっと悪いことを考えれば、犯罪や残虐行為の訓練に用いられることであろう。VRによる洗脳である。昔、初年兵が中国の前線に送られて来ると、古参兵が戦争を体験させ、慣れさせるのだとして、無辜の住民を適当に拉致して来て、杭に縛り付け、銃剣で刺し殺させたことが行われたが、VRで何回も繰り返しそういった場面を見せられれば、現実との違いがあやふやになり、残虐行為もあまり抵抗なく出来るようになるのではなかろうか。

 VRは戦場に赴く前の兵士の訓練として利用される可能性も大いに考えられそうである。人殺しのVRを繰り返し見させられれば、現実に近いだけに、感覚が麻痺して、実際の人殺しもあまり抵抗なく行われてしまう恐れもあるであろう。

 どんな技術にしても、それを利用するのは人間であり、モラルの原点は人間性にあるのだが、これまでの歴史を振り返った時に、人間は必ずしも、技術の良い面だけを利用してきたわけではないだけに、新しいVRの技術も、使いようによって良い面と悪い面のあることを、あらかじめ、しっかっり抑えておくことが必要だと感じる。

おーい待ってくれ!

 若い時からせっかちな私は、歩くのが速く、いつでも少し前屈みになって、急いで歩いている様だと言われてきた。道を歩く時でも、他人を追い抜くことはあっても、追い抜かれることはまずなかった。

 女房と一緒に歩く時も、どうしても私が先に行くことになり、女房が後を追いかける格好になり、「よそのカップルは皆並んで歩いているのに、うちはいつもあなたが先に行ってしまう」と文句を言われがちであった。

 電車から降りる時も私が真っ先に降りるので、ホームの人混みの中で私についていくのが大変だという。二人とも背が低いので先を行く私がいつも手を挙げて合図を送っていたのだが、梅田のような人の多いところではついわからなくなって迷子になってしまったようなこともあった。

 もう20年以上も前から、一月に一回は夫婦で箕面の滝まで行くことにしてきたが、その時も私が先行し、女房が自分のペースで後から来る様にして、所々で、私が待って一緒になり、また、私が先に行くという方式になっていた。

 健脚で急な坂道でも足が速買った私は、前方を行く女性などかなり距離があっても、追い抜いてやろうと思えば、さして努力しなくても、少しづつ距離を縮めておいて、三ヶ所ある急坂のいづれかの所で追い抜くことが多かったのであった。

 阪急電車の朝6時、石橋発の一番電車に乗って箕面まで行き、そこから滝までの往復5.6キロを1時間あまりで歩き、6時半には池田に戻るのがいつもの行程であった。それで家に急いで帰れば、まだテレビのラジオ体操に間に合っていた。

 そんな訳で、歳を取っても歩くことには自信があった。ところがである。昨年の秋に脊柱管狭窄症になってから、今年の夏までは間欠性跛行で、ひどい時には家から駅まででも4〜5回も立ち止まらなければ行き着かなくなってしまったのであった。年齢から考えても、もう遠出は無理だろうと考えざるを得なくなってしまった。

 しかし、歩くのが好きなのに歩けなくなっては困ると思い、シルバーカーなる手押し車を買って、それを押して出来るだけ歩くようにした。脊椎管狭窄症があっても、前屈みになれば結構歩けるものなのである。毎月の箕面行きも、折角これまで続けて来たのだからと、シルバーカーを押して休み休み滝まで行った。坂道を上るのは良いが、手押し車を押して坂を下るのは難しいので、降りる時には女房に車を持って貰い、私はダブル・スティックスを使って降りるようにした。

 こうして車を押しながらも歩いていると、月日はかかったが、今年の夏頃になって足が軽くなった感じがして、幸いなことに、シルバーカーなしでも、また歩けるようになった。ステッキは使っているものの、普通のように歩けることは有難いものである。ただ、歩くスピードが極端に落ち、疲れ易くなって、長道を休まずに歩くことは出来なくなってしまった。

 もう昔のように速足で歩くことは不可能で、低速でゆっくり歩き、時々休憩をとって腰をおろ氏、一休みしてはまた歩くようにしなければならなくなった。それでも兎に角、以前のように、普通に歩けるようになったことは有難いことである。

 ただ、こうなると、女房と一緒に歩く時も、以前とは逆転してしまい、どうしても女房が先を歩き、私が後からついて行く格好になってしまった。スピードも遅くなって、何処ででも群衆を追い抜いて歩いていたのが、今では群衆が次から次へと私を追い抜くようになったしまった。初めは何とか追い抜かれまいと努力もしてみたが、たちまち無理だと思い知らされ、今ではどうぞお先にと思って自分のペースを守るようにしている。

 昔が速かっただけに、歯がゆい思いがする。時々先を歩いて行く女房に心の中で「おーい待ってくれ」と叫びながら追いつこうとするが、どうしても追いつけない。今では、もう歳が行けばこんなものと諦めて、自分のペースを守るようにしている。

 以前には、家に帰り着く時も、私が先について、門の扉の鍵を開けて、女房が辿り着くのを待ったいたのが、今では反対に女房が先に家の門に着いて、鍵を開けて待ってくれるようになってしまっている。何とかして、女房の先回りをして家に辿り着けないものかと思うこともあるが、どうしても足が進まない。急いで追いついても、玄関を上がる時には、ヘトヘトで上がり框に座り込んでしまうことになる。

 94歳にでもなれば仕方のないことか。歩いて外出が出来るだけでも有難いことだと感謝せねばならないのであろう。

介護の「自立支援」は介護問題の解決にはならない。

 この国では年とともに老人が増え、当然のことながら、介護保険を利用する人も増えてくる。そのため、65歳以上の介護保険料も上がり、国の負担も増える。

 介護保険制度が始まった2000年度の給付費は3.2 兆円だったが、18年度には9兆6千億円と3倍にまで増え、65歳以上が払う介護保険料も、全国平均で、00年度には月額2911円だったのが、20年度には2倍の5860円となっているそうである。

 今後もますます増える高齢者を見込んで、政府は何とか介護費用の増加を抑えようとして色々工夫もしているが、その中で障碍の軽い老人には、介護予防や自立支援に力を入れて、要介護になる人を出来るだけ減らそうという試みに力を注いでいるらしい。

 要支援と判定された高齢者を訓練して、自立支援といわれる状態にまで持って行き、その後も、介護予防拠点などでフォロウして、介護を必要としない期間を出来るだけ延し、介護給付費の増加を抑えたいわけである。

 自立出来て、健康寿命が伸びることは良いことだが、目的の介護費用の抑制が強調され過ぎると、ケアの必要な人がお荷物のように扱われる社会になりかねない恐れがある。政府が自立支援に取り組み、利用者の身体機能を改善させた場合に成功報酬を出したり、自治体に交付金を上積みしたりしているそうで、益々それを助長することになりかねない。

 それが嵩じると、事業者が改善の見込みのある人だけを選別して受け入れることにもなり易い。更には、認知症にまで予防を強調する動きさえ出て、認知症になるのは努力が足りないからだという偏見さえ生み、認知症の人の尊厳が脅かされることにもないかねない。

 それに、健康寿命を延ばして平均寿命が延びても、老人が減るわけではない。自立支援が成功して自立出来ても、老いは一方的に進むものだから、いつかまた機能が落ちて老化が進むのは必然で、それらの老人にも、医療や介護の必要な時期は必ずやってくることになる。そのため、全体としての医療費や介護費が減るわけではなく、単に先送りするだけのことである。

 予防に取り組むのは、あくまでもその人の生活の質(QOL)を高めるためであり、介護費用を減らすために役立つものでないことを知っておくべきであろう。

 

 

 

 

 

無人駅とバリアフリー

 新聞のオピニオン欄に無人駅とバリアフリーというフォーラム(2020.11.29.)があった。全国の駅の40%以上が無人駅だそうである。それを読んでいて思った。

 車社会になり、道路が整備されると、鉄道輸送の効率が悪くなり、国鉄までが民営され、各私鉄も合理化が進むと、乗降客の少ない駅などでは、効率の悪い人員配置が真っ先に見直されて、無人駅になるのは仕方のない世の趨勢であろう。

 昔は改札口と言えば、駅員さんがいて、乗降客の切符を切ったり、回収したりしていたものであった。懐かしい昔の駅の風景が思い出される。単線の路線の駅では、対向車とすれ違う時には、印に鉄の輪のようなものを交換するようなことも行われていたこともあった。それも、もう遠い昔のノスタルディアになってしまった。

 車が増えて乗客が減ると、列車の回数が減る。列車の回数が減ると、不便なので余計に利用者が減るという悪循環になって、経営を維持するにはどこの鉄道会社も、合理化を進めなければ経営が成り立たなくなる。

 こうして鉄道会社の合理化の結果が、無人駅をどんどん増やし、いつの間にか半分近くにまでになってしまったのであろう。今や機械が発達して、切符売り場も、改札も自動になれば、あとは列車の運行に関することだけなので、踏切をなくしたり、警報をつけたりして、安全に配慮した設備を整えれば、一応の無人駅の態勢が出来上がる。

 ただ残る問題は、乗客が種々雑多な人間であることである。仮に「標準的な」人間だけが乗客であれば、それで済むことでも、乗客である人間が多様なので、全ての人に満足して利用して貰うためには、その人間のそれぞれの多様性に答えることが必要となる。

 段差をなくして、スロープをつけたり、手摺をつけたり、エレベーターを設置したり、列車とホームの間隙や段差を小さくするなどの物理的なことは解決出来ても、いわゆる身体障害者などの安全確保ということになると、どうしても人の助けが必要になる場合が残る。

 そうかと言って、稀にしかない障害者に対する援助のためだけに人員を一人配置するようなことは出来ない。仕方がないので、あらかじめ予約して貰い、その時だけ駅員がやって来て対応することになる。それが精一杯の出来ることではなかろうか。しかし、それでは身障者に不公平である。当然誰もが予約しないでも、同じように乗り降り出来る条件を整えるべきである。

 ただし、それに答えるだけの体力は鉄道会社に求めても、最早無理なのではなかろうか。会社にとって出来ることは、いっそ、その駅を廃止してしまう合理化ぐらいしか考えにくいことになるのではなかろうか。しかし、それでは住民、ことに障害者の生活に影響することになるのは当然である。

 これを解決するには、もはや鉄道会社と乗客だけでは解決は不可能であろう。視点を変えて、身障者を含めた住民の生活の問題として、鉄道の利用を考えるべきであろう。鉄道の利用が地域の住民にとって必要であるならば、地域も駅の運営に関心を持って、対処法を考えるべきではなかろうか。

 そうすれば、例えば、駅舎を公民館とか図書館、あるいは役場にでもして、もし援助が必要な人が生じたら、その場にいる人が援助するといったことも考えられるのではなかろうか。コンビニなどに駅舎を貸すのも良いかも知れない。

 いずれにしろ鉄道と乗客だけでは解決出来ない問題でも、そこで暮らす住民のために地域が関与すれば、解決の展望も開けそうに思われるが、どうであろうか。