戦争によるロックダウン世代

 最近、新聞のコラムに「ロックダウン世代の救済急げ」という記事が載っていた。『新型コロナによる「ロックダウン世代」という言葉が聞かれる。若い世代で新型コロナの影響によって学校閉鎖で教育を受けることが困難になるほか、景気悪化で就職の機会を失い、将来にわたって労働市場で不利益を受ける可能性が強い』という文脈で、ILOなどの国際機関も警鐘を鳴らしている。こうした未来を支える若者の救済措置を急ぐべきだというものであった。

 全く同感であり、何の責任もない若者がその生まれた時の違いによって、生涯に影響する社会的なハンディを課せられるのはどう見てもフェアーではない。今回の新型コロナによるロックダウンにしても、リーマンショックのような経済的不況のような時にしても同様である。社会的に救済制度を構築するなどして、何とか不公平を少しでも是正すべきであろう。

 ところで、この記事を見て、私が思い出すのは戦争による学業放棄の経験である。戦争が激しくなり、人手不足が深刻になるにつれて、学生は勉強どころではなくなり、全てが戦争のために動員された時代のあったことが苦々しく思い出される。

 昭和18年の11月3日、当時の明治節(今の文化の日)、この日は例年滅多に雨の降らない日なのに、雨降りで、その雨の中で、学徒動員で集められた大学生たちの壮行式が行われたのが象徴的な出来事であった。多くの学生が、戦争のために学業を切り上げて戦場に駆り出され、多くの者が命を失った。

 しかし戦争のために動員されたのは大学生だけではなかった。多くの出征兵士のために生じた労働力を補うためには、強制的に連れてこられた朝鮮人や中国人を始め、捕虜まで使われたが、それでも足らない部分は中学生や女学生まで学業を放棄させられ、色々な作業に動員された。

 丁度、その頃中学生であった我々も、中学3年生の頃から、初めは勤労動員として貯水槽堀りに半日ぐらいづつ動員され、中学4年になると、もう学校へは行かず、一日中工場で働く工場動員が始まり、戦争のため我々の学年のみ4年で卒業とされ、私はその後海軍兵学校へ行ったが、残ったものは卒業してからも戦争が終わるまで働かされた。

 そのため我々の学年の生徒は、今の中学校の3年の初め頃までしかまともに学校で勉強しなかったこととなり、戦争が終わっても戦後の混乱で、何とか旧制度の高校から大学まで行くには行けたけれど、今では学生が一番よく勉強する、今の高校時代をすっかり飛ばして大学へ行ったようなもので、基礎的な教養にどこか欠けたところが一生ついて回ったような気がする。

 まさに、今なら戦争のために学校からロックダウンされたと言ったところである。今と違うのは、戦争のため国のためということで、誰もが自分の事でいっぱいで、当然なこととされていたので、それによる損失など考えるゆとりもなく、そのまま放置されたことであろう。生きることさえ出来れば良しとしなければならない時代だったので、救済処置など考えられる余地もなかった。

 今はコロナの感染予防だけを考えて、学校からのロックダウンによる被害を最小に抑える手段などが試みられる良い時代だとも言える。そんなことでは済まなかった戦時中の、今とは比較にならないような学業や人生に及ぼされた大きな歪みを考えれば、戦争だけは絶対にするなと言いたい。ただ無駄に失われた、筆舌に尽くしがたい過酷な時代であった。

 その我々の世代の苦い戦時の経験からも、コロナ禍による現在の若者の学校閉鎖などによる学業の遅れ、就職の不運などが、その人に一生について回ることのないように、何とかして少しでも社会でカバーすることが出来ればと切に思う次第である。

世界で一番戦争をしている国

 たまたまSNSで興味深い記事を見た。世界で一番よく戦争をしている国はどこかというものであった。誰しも最近の世界での戦争のニュースを見聞きしていると、それはアメリカではないかと思うであろうが、まさに正解である。

 WashingtonsBlogというのによると、2011年にDaniosと言う人が調べているのをInformation Clearing House(ICH)という所が2015年までの分を捕捉して、発表しているのだが、アメリカは1776年の建国以来2015年に至る239年中222年、実に93%の年、何らかの戦争をしていたことになるそうである。

 独立戦争に始まって、長期にわたるインディアンとの戦い、スペイン戦争、メキシコ戦争南北戦争、フィリピン戦争、第一次および第二次世界大戦などが続き、戦後も、朝鮮戦争ヴェトナム戦争があり、その他にもガテマラ、ニカラガ、パナマその他の中米諸国への侵入、さらにはペルシャ湾岸戦争、イラク戦争アフガニスタン戦争もあるし、レバノン、シリア、イエーメンなど中東、ソマリアリビアなどのアフリカ、さらにはボスニア・ヘルツゴビアなどと、世界の警察官よろしく、世界中での戦争に関与してきたことは周知の事実である。

こうなると戦争のあるのが日常で、戦争のなかった年は、僅か21年だけということになる。

(1791,1797,1807.1808,1809,1826,1828,1829,1830,1897,1935,1936,1937.1938,1919,1940,1976,1977,1978,1997,2000年の21年のみ)

 10年と平和が続いたことがなく、一番平和が長く続いたのは、1935年から1940年までの5年間で、この間は戦前の大不況でアメリカが孤立している時期であった。いかに果てしもなく戦争をしているのだろうかと呆れるばかりである。

 この多くの戦争には、それぞれの色々な経緯があったのであろうが、その戦争ごとに、多くの命が失われたことは間違いない。色々な矛盾の解決には、もっと平和的な方法もあったと思われるが、これらの戦争で大儲けをした人たちがいたことも確かである。

 昔の戦争はいざ知らず、近代の戦争は総力戦で、大量の武器が使われるが、武器には値段がない。しかも、戦争でどんどん消費してくれる。勝つためには、どんどん補給しなければならないので、戦争ほど儲かる商売はないであろう。

 日本も、第一次世界大戦では参戦したが、実際の戦いは少なかったので大儲けしました。第二次世界大戦では散々な目に遭ったが、戦後には、朝鮮戦争では戦わずして、兵站基地だけに関与して、日本の復活の足がかりを作り、ヴェトナム戦争を通じて経済成長したのが歴史である。

 戦争で儲ける方は良いが、そのため家を焼かれ、死んだり、傷ついて被害を受ける人々にとってはたまったものではない。自国が戦場になった朝鮮やヴェトナムの人たちにとっては、日本人が戦争で受けた被害と比較にならない惨禍に見舞われたに違いない。

 ましてや、この戦争にコロナのパンデミックなどが重なったのでは、世界中の人にとって、たまったものではない。国家観や宗教の違い、経済的な矛盾など、世界に見られる矛盾は無くなることはないだろうが、その解決法は戦争とは限らない。懸命な人類はもっと話し合いの外交によって矛盾を解決することしか人類の未来の繁栄を保証する方法のないことを知るべきであろう。

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老人の夢精

 夢精と言えば青春のシンボルのようなもので、性的な事柄なので、あまり公然とは話されないことが多いが、若い男子の象徴とも言えるもので、男の必須の生理的な現象である。

 精巣で作られた精液が膀胱に近い精嚢に運ばれ、そこで精嚢液と混じり、それが刺激に応じて尿道から発射されることになる訳だが、それは必ずしも性交によるとは限らず、それ以外にも生理的に起こるものである。それが夢精と云われるものである。

 一般に精嚢が睾丸からの精液を受け取り、精嚢液がある程度溜まると、たとへ性的な刺激がなくとも、膀胱に近接しているので、その圧迫などによって、無自覚的に射精が起こることにな流のである。

 若い時には、大抵それが刺激になって、性的な夢を見ることが多いものであるが、夢精は必ずしも性的な夢を伴うとは限らない。単に膀胱に尿が溜まって強くなった圧力が精嚢を圧迫し、それが刺激になった機械的に夢精を起こすことになるようである。

 従って、若くて精子の産生が盛んで、性活動が盛んな時には、当然夢精も頻回に見られるが、必ずしも性交とは関係なしにでも起こる生理的な現象なので、性交の多寡と夢精とは関係しないと言われている。

 それにしても、性交も夢精ももっぱら若い時代の話ということにされ勝ちであるが、睾丸での精子の産生は、女性の卵巣と違って、かなり高齢まで続くこともあるようで、70歳過ぎて再婚して子供を設けたというような話もよく聞かれる。

 それに連れて、夢精も案外歳を取っても続くものである。性的刺激が少なくなり、陰部の血流が衰え、精嚢液の貯留が遅くなっても、膀胱の膨満が刺激となる生理的な現象なので、夢精は頻度は減っても続くものである。もちろん液の産生にも貯留にも若い時より時間がかかるので、頻度は落ちるが、無くなりはしない。

 それでも、もう90歳も過ぎれば、最早そんなことには関係がなくなることだろうと思っていたが、92歳を過ぎてから、先日久し振りに夢精があった。恐らく、膀胱の過剰な尿の貯留が刺激になったのであろうが、悲しいことに、性的な快楽とは全く無縁の排泄だけであった。

 それに伴って見た夢は、何処かで大勢の仲間と板敷きの部屋で雑魚寝をする夢で、こちらが寝ようと思った所に、次々と他の仲間が寝てしまい、寝る隙間がなくなって、皆が部屋を取り囲んで寝ている真ん中だけに残された空間に、寝なければならなくなったような夢であった。

 勿論、この歳では精液の量も少なかったし、恐らく無精子液だろうが、それでもこの歳になっても夢精のあったことは、多少の困惑はあっても、それだけまだ元気だという証拠でもあろうかと密かに喜んだりしたものであった。それがこれを記録させたのであろう。

政府の学術会議会員任命拒否は亡国への道

 内閣府が所管する日本学術会議が推薦した会員候補6人の任命を菅義偉首相が拒んだ問題は、「学問の自由への不当介入」との批判を招き、発足から間もない政権は早くも火種を抱えることになった。

 学術会議会員の任命権は首相にあるが、学問の自由の観点からも政府から独立した体制であるべきで、中曽根内閣の時に、国会で首相が明確に「任命権は首相にあるが、形式的なもので、推薦者を内閣が拒むことはない」旨答弁しているのである。それ以後に解釈変更していないと政府は言うが、政府にはこの任命拒否の理由や経緯を明らかにすべき責任がある。

 学術会議の会員推薦を政府が恣意的に拒むことは学問の自由を侵害することになり、政府に都合の悪い主張は抹殺され、学問を歪めることになり、それは政府の独裁政治にも繋がっていく、恐ろしい問題である。

 戦前の京大の滝川事件や津田左右吉事件などを思い出すが、その結果がどうなっていったか、その後の大日本帝国の歩みを見ればわかるように、今回の政府の恣意的な任命は再びこの国の運命を怪しくしていくことになりかねない。

 政府に反対する学者が排除され、予算による学者の支配、忖度が進めば、政府は客観的な情勢の判断を誤りながら政策を進めかねず、次第に反対者を封じていって、遂には、誰も反対できない状態となり、戦前の苦い経験を繰り返すことにもなるであろう。

 戦争は一度に急に出来るものではない。いろいろな事が次第に積み重ねられていって、最後には誰も反対出来なくなって、戦争になったことは戦前の貴重な苦い経験である。今回の政府による学術会議会員の任命拒否は、専門的な学問の世界の中だけの問題だと見逃してはならないことで、国民全体の運命にかかわる重大事である。こぞって反対すべきであろう。

 政府は任命拒否の理由を国民に説明すべきである。

かん國映画「はちどり」 

 韓国の新しい若い映画監督キム・ボラさんの「はちどり」(House of Hummingbird)という映画を見た。昨年韓国で公開され、「パラサイト・半地下の家族」に次ぐ異例の大ヒットとなった映画だそうである。

 ソウルの集合住宅に住む14歳のウニの何の変哲も無い日常生活を描いただけの作品である。この年頃の少女の、親子5人の家庭や学校での生活上の出来事や、それから受ける心の動きなどを丹念に上手く描写している。それに金正日の死亡や、漢江のソンス大橋の崩落事件などの時代背景を絡ませ、その時代の中での少女の生活や心理が的確に描かれていて興味深い映画になっている。

 両親は餅屋の仕事に忙しいので、あまり構って貰えない。両親の仲違いや、学歴社会に振り回される兄、異性の友達にのめり込む姉、家父長社会の名残を残す人間関係や、この年代の年頃の娘の学友たちの付き合いの難しさなどを上手く描写している。韓国の集合住宅の中の様子や、そこでの暮らしぶりなども興味深い。ベッドでなく、床に布団を敷いて寝ている様子など懐かしい。

 誰にも真剣に向き合ってもらえず孤独なウニの心に、漢文塾の学生運動の闘士ででもあったかのような一風変わったタバコを吸う女性の先生だけが真剣に向き合ってくれ、心を惹かれるなどなどのストーリー。若い監督の記憶に依拠して作られたのではないだろうかと思いたくなる。

 細かな描写までよく出来ている映画である。この先生に「自分が分からなくなっても指は動かせる」と言われ、ずっと後の場面で、また指を動かしている手の大写しの場面が出てくるなど、忘れ難い。ただ、姉の描写が橋の崩落を免れた話以外はっきりしなかったが、初めの方で男友達と戯れてtいたのがウニでなく姉の方であったのを見誤っていたのかも知れない。

 とにかくよく出来た映画であった。今後のこの監督の成長を期待したい。

中秋の名月

 今年の夏は本当に暑い日が続いた。昔なら30度を超えれば特別に暑い日だというように感じられたものだが、最近は35度を超えるぐらいでないと、猛暑だとか酷暑だとか言って貰えない。暑さの記録はもう40度にまで達している。

 それに、いつまでも暑さが続くので閉口させられる。昔から「暑い寒いも彼岸まで」と言われて来たが、今年など、彼岸を過ぎても35度近くにまでなる。10月は昔なら衣替えの季節で、制服も10月1日から一斉に冬服に変わったものであったが、今年などは、10月になっても、背広など着ている人はまだ少数派である。流石に朝夕は多少涼しくなったが、昼間は今でも尚28、29度から30度になる所まである。

 それでも驚くべきは、彼岸になれば、あちこちに例年通りにちゃんと曼珠沙華が咲くし、ススキもいつの間にか穂を出している。コスモスも風に揺られている。まるで外の温度よりも温度差に敏感なのか、まるで暦を知っているかのようである。

 ところで、9月の末になって、夜に雨戸を閉めようとしたら月が丸くなっているのに気がついた。すっかり忘れていたが、もう中秋の名月が近いようだ。まだ何も話を聞かないので、もうすぐなのであろうと思っていたら、今年は2日後の10月1日の夜がそうだった。

 丁度その日にたまたま、久しぶりに妙見山に行ってみたが、途中の田舎道で、道端のすすきを取り、近くに咲いた曼珠沙華と一緒にして、持って帰ろうとしていた老婆を見た。恐らく、夜になったら、家でススキを飾って、月見をしようという魂胆だったのではなかろうか。

 幸い中秋の名月の夜は晴天だったので、窓を開けっ放しにしたまま、長時間ゆっくりと名月を眺めることが出来た。かすかに叢雲のかかった満月も風情があって良いものだが、雲ひとつない空に名月が煌々と光り、物の影さえ作っているのも見飽きないものである。

 月を見ていると色々なことを思い出す、戦後まだ間もない頃、高校時代に月見に行こうと友人と二人で出かけ、寒くなって慌てて帰ったが風邪を引いてしまったことがあった。もうその友人もいない。旅先で山の端にかかった名月を眺めたこともあった。忙しくて名月どころではない時代もあった。

 歳をとって夜早く寝るようになって、雨戸を閉める頃に、この中秋の名月を眺める年も増えた。名月を眺めて、ついアメリカにいる娘や孫たちに思いを馳せたこともあったが、じっと月を眺めていると、地上の嫌な出来事も、しばらくの間、忘れさせてくれるものである。もう92歳の秋ともなれば、あと何回中秋の名月を見れるだろうかという思いが、ふと横切ったりもする。

 それにしても、月見の夜は以前はもっと寒かったものである。今年のようにパジャマ一枚のままで、大きく開いた窓辺で、いつまでも気持ち良く名月を見続けることが出来るのは、矢張り地球温暖化のためか、地球の環境が変わって来ていることの印ではなかろうか。

 今年も、中秋の名月を眺めながら、ゆっくりと悠久の時間に浸った後に眠りにつくことが出来た。

Black Lives Matter の意味を知ろう!

 

 現在、アメリカで始まり、世界各地にまで広がっているBlack Lives Matterの抗議活動は世界中の人々にとっても、人間の基本的な人権の問題として、見逃す事は出来ません。

 アフリカ系アメリカ人の抗議がどいうものか、これらの映像は人種差別がどのようなものなのか、彼らの主張がどのようなものなのか、分かりやすいと思われますので、参考にと思い、最近のSNSから拾ったものを載せます。

 歴史的な、構造的なアメリカのおける人種差別については別のところで調べて下さい。動画も沢山ありましたが、ここでは無理ですので、静止画の映像のみです。

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大坂なおみさんが試合の時に帽子に掲げていた警察官に殺された人たちも含んでいます。

銃を持っていても殺されない人と、銃を持っていなくても殺される人の違いは何でしょう。

 

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やりきれない思いが伝わってきます。

 

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何も騒動を起こそうというのではありません。正当な判断を要求しているのです。

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亡くなられた人たちのご冥福を祈ります。

 

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 Black Lives Matterとは直接関係ありませんが、社会におけるひどい格差が問題だという点では同じです。 Black Lives Matterに繋がる問題を現在社会が抱えていることを知れば、人類共通の人権の問題として、決して人ごととして切り捨てることは出来ない事ではないでしょうか。