我が家のズーム・チャット

 コロナのおかげで、日本でもインターネットのアプリである”Zoom”で、離れた所にいる何人かが一緒に会議をしたり、お喋りをしたり出来るようになった。我が家でも、娘が世話をしてくれて、時々家族の皆が集まって、Zoomでお喋りをしている。

 娘や孫たちが皆海外にいるのに、皆が同時に顔を合わせて、お喋り出来ることは本当に素晴らしいことである。昔1960年代の初めに、私がアメリカにいた頃には、日本とアメリカを同時的に直接繋ぐ方法は国際電話しかなかった。

 ところが、国際電話は交換手を介して繋がっても、ザーザーという雑音が多く、「もしもし〜ザーザー、聞こえますか?ザーザー」の繰り返しで、雑音が多くて聞きづらいし、電話料金も高かったので、予め用意して置いた要件を纏めて話すのが精一杯で、仲々ゆっくりと話し合うというものではなかった。

 時代が変わったものだと驚くばかりである。何年か前には、skypeとかいうアプリを使って、アメリカいる娘と話すようにしたことがあるが、当時は、お互いに未だ仕事をしていて忙しかったこともあり、時間の調整が難しくて、自然消滅してしまったことがあった。これは双方向だけの通話であるが、Zoomはあちこち複数箇所にバラバラにいる家族でも、同時に同じ画面で話し合えるのが素晴らしい。

 今や孫たちも皆一人前になったので、皆が集まって話が出来るのが何よりである。ただ、各々の場所の時間差が大きいので、それぞれの時間を合わすのが大変である。有難いことに娘と娘婿が調整してくれるので、こちらはそれの乗っかるだけなので助かるが、私の家族は世界中に広がっているので、同じ時間を共有することが難しい。

 それぞれ仕事もあるので、先ずは週末でないと無理である。次いで、時間差があるので、その調整が必要となる。結局、今回決まったのは、我々の日本が日曜日の午前6時、アメリカのロスアンゼルスの下の娘の家族が土曜日の午後2時、上の娘のニューヨークが午後6時、イギリスのブリストルにいる孫が午後10時ということに決まった。

 丁度、地球を一巡りということでなる。これだけバラバラになっていても、お互いに顔を見ながら一緒に話が出来るということは本当に感激というところである。科学技術の発展に感謝しなければなるまい。

 今回は私の誕生日を祝って、皆でハッピー・バースデーを歌ってくれ、バースデイの絵を飾ってくれたりした。ただし、ニューヨークでは、娘婿とふたりが自宅でZoomの仕切り役。ロスでは、下の娘は家で、孫二人は親戚筋の子の高校卒業式にサンディエゴに行っていて、そこからの参加。真ん中の孫はイギリスで、夜にボーイフレンドと車で帰るところと、それぞれに場所も条件も違っても、一緒に顔を合わせて話せるのだから有難い。

 いろいろな話で盛り上がった上に、サンディエゴからは思いがけず、親戚の子なども顔を出してくれて、言葉を交わせたし、イギリスでのボーフレンドにも初めてお目にかかれた。それぞれに身内なので、画面で見られる以上に、周囲の雰囲気まで感じられるのが良い。先方で、我が家の庭の蝉時雨まで聞こえたらしい。こうして、あっという間に楽しい40分が過ぎてしまった。

 今はコロナの流行もあるので、あまり出歩かない方が良いだろうし、こちらも歳をとって海外旅行となると、もうしんどさが先に立つようになってしまったが、こうしてZoomででも顔を合わせて話が出来ると、まるですぐ近くにでも住んでいるような感じがして、力強いし、楽しいものでる。家族が海外に居るような方には是非お勧めしたい。

   (これは2020.07.29.の記事です)

Go To Hell

 Go To キャンペーンはコロナ(Covid19)による経済の落ち込みからのV字型回復を狙って計画されたもので、そのうちのGo Toトラベルは コロナ蔓延で被害を被った観光業を助けようとするもので、全国旅行業協会所属の旅行社を通じて予約すれば、旅費や宿泊料の半額を政府が負担するというものらしい。ところでこの全国旅行業協会の会長は自民党幹事長の二階俊博氏なのである。

 はじめは8月からする予定だったが、夏休みの観光を狙って、オリンピックのために作られて4連休を利用して、その前日の7月22日から始めることとなったものらしい。ところが、間際になってきてコロナの感染者がまたじわじわと増え始め、予想に反して第二波が起こりそうな気配になって来て、また外出の自粛などを要請しなければならない事態になりそうになって来た。22日が迫ってくるので、どうするか決めなくてはならなくなってきた。

 初めの予定に戻して、それまででも様子を見ることにしてはと思うのが常識だろうが、こういう大金の絡む大規模な計画は、一旦決めたことは容易には変えられないようである。利権も絡むので余計に動かし難いのであろう。始めからコロナの感染がある程度増えてくることは「ウイズコロナ」と言う掛け声からも承知済みなことが分かるが、それより経済のテコ入れの方が大事だという考えなのだが、ここまで第二波が早く起こってくるとは思っていなかったのであろう。

 結局、感染者の多い東京だけ除外して予定通り始めることになったようだが、果たしてどういう結果になるであろうか。東京の除外と、コロナ感染への恐怖による、本来のGo Toトラベルの効果の減弱と、このキャンペーンのコロナの第二波への影響、その結果としての再度の経済活動の中止や縮小などへ繋がるのか、結果がどういうことになるのかわからない。

  片方で三密や不要な外出はやめろと言いながら、他方で出来るだけ旅行して人とも接触しろと相反することを勧めることになりかねない。果たしてどこへ行くのか。まかり間違えばGo To TravelがGo To Hellになりかねない怖さを潜ませている。その責任はそれに乗せられた国民が取らされるのであろうか。

 本来このキャンペーンはもっとコロナが落ち着いてからやるべきものである。拙速は失敗の元である。一旦決めたことを官僚に任せるだけでなく、もっと政治が流動的に動けて、途中でも訂正出来るようにしておかなければ、国民が大きな被害を受けることになりかねないであろう。

 庶民はこれで第二波が広がらねば良いがと願うばかりである。 

日本はやはり米国の植民地か

 コロナのパンデミックで各国が他国からの入国を拒否し、日本でも、殆どの国からの入国を拒否をしてきた。国外からの人の流入に伴う、コロナの感染を防止するためで、国民を感染から守るための措置である。しかし、日本ではそれに大きな抜け穴があるのである。

 私は以前から、折角の国境管理をしても、抜け穴があるから、それが心配だと話していたが、本当にそうなってしまった。沖縄の米軍基地でコロナの集団発生が起こったが、詳しいことは不明なままで、基地で働く日本人の家族の子供達を学校へ行かせないように勧められたがどうしてかわからないようなこともあったらしいが、その後で駐留アメリカ軍のコロナ集団感染が明らかになったそうである。

 トランプ大統領が日本へ来た時も、大統領は日本の米軍基地である横田基地に降り、そこからヘリコプターで東京へ来たように、日本にある米軍基地は日本でなく、アメリカの主権下にあるのである。従って、アメリカの軍人にとっては、基地はアメリカの国内の延長であり、基地を通ればフリーで日本に入れるし、基地から日本国内へも自由に出入り出来るのである。従って、日本の出入国管理と一切関係なしに、本人ばかりでなく、家族も自由に出入り出来るらしい。 

 空港における検疫がないので、たとえコロナに感染していても、基地を通れば、何のお咎めもなしに、自由に国内へ入れることになる。こういう道があれば、日本では如何に空港で厳重にチェックしても、米軍関連のコロナ感染の抜け穴がぽっかり空いているのである。

 しかも、米軍からの自発的な連絡がなければ、感染者が入国したかどうかの情報もわからない。軍隊は一般に秘密事項が多いものだから、たとえ米軍側からの通知があっても、どこまで正確であるかどうかも米軍次第で、本当のことは必ずしも分からない。

 それに感染者が出ても、それに対する隔離や加療の結果なども、全てがこちらに知らされるわけではない。基地には日本人の従業員も多くいるが、基地内の詳しい環境や働く条件は日本側には分からない、その分からない従業員は基地を出て、自宅に帰り、基地外の日本社会でも活動することになるのである。

 そういったところから、コロナが沖縄の一般社会に感染が広がる恐れも大きいが、日本側にとっては、情報が必ずしも正確でないので、結果としての感染や発病が起こってからしか手の打ちようがない。

 本来ならば、政府がアメリカに申し込んで、基地内の感染の実態を掴み、感染者を基地内に封じ込めるなりの処置をとるべきであろうが、日本政府に出来ることはお願いだけで、強制力がない。相手が米軍であるだけに、米軍の利害が優先し、秘密は守られるであろうから、いくら申し込んでも、こちらの思うようにはいかない、アメリカ軍にとっては軍の利益が優先し、基地外の感染がどうであろうと、アメリカ軍にとっては関係のないことだから、当然関心も薄くなる。

 同じ基地でも。韓国では駐留米軍はコロナも完成位状況などもS NSに載せているそうだが、日本では平素からの申し入れなど弱腰なので、米軍に軽く見られているのではないだろうか。

 平素は日本政府は日米関係が不平等であることを出来るだけ国民の目からそらそうとしているが、国が国民をコロナから守るという当然の基本的な義務を果たさねばならないのに、国に管理出来ないアメリカ軍のコロナ感染が明らかになってみると、安保条約の不平等性、日本がアメリカの植民地とでも言うべき不平等な関係にあるのだということが明白になるのである。

 コロナのパンデミックを克服するためにも、日本が真の独立国家になることが必要である。植民地国家には国家の基本的な義務である国民の生命や健康さえ守れないことを知るべきであろう。

マスクをするか、しないか

 コロナのパンデミックのお蔭で、マスクが大流行りである。ひと頃、ドラッグ・ストアでも、マスク売り場の棚だけが空っぽの状態が続き、国会でもマスク不足が問題となって、アベノマスクが国から配られたりしたが、それがまた問題を起こしたことは皆の記憶に新しい。

 流石に最近はマスクも充分出回っており、夏に向かってひんやりする夏用マスクなどが考案されて広告されたりしている。

 それは兎も角として、マスクがコロナの感染予防に役立つことは、今では世界中に定着しており、マスクを嫌がる人の多いアメリカやヨーロッパでも、広くマスクが用いられるようになっている。先日は、イタリアでマスクをしないでバスに乗ろうとした人を、運転手が拒絶したところ争いになり、運転手が意識不明の重体になったとかのニュースが出ていた。

 日本ではコロナの予防のために、政府が不要な外出を控え、なるべく家に留まるようにすることと、3密、すなわち密閉、密集、密接を避けることとともに、手洗いとマスクの着用を勧めたのが始まりであろう。今では何処へ行ってもマスクをした人ばかりで、だいぶ慣れてきたとういえ、やはり何か世間の異様な感じは消えない。

 そのお蔭かどうかは別としても、幸い、この春の流行は緊急事態宣言が出されたものの、結果はそれほど広がらずに何とか落ち着いた。宣言も解除され、閉鎖されていた社会の諸施設も次第に再開され、経済活動も次第に元に戻りつつあり、今度はGoTo政策とかで積極的な観光刺激策まで動き出しそうな気配であるが。感染者数がまた増えつつあり、第二波の襲来は大丈夫なのか心配である。

 街へ出ると、人出が増えて来たものの、殆どの人はマスクをしたままである。マスク姿の洪水である。多くの人が第2波を恐れているからであろうが、この異様な風景はいつまで続くのであろうか。日本人はマスクが好きなのか、コロナが流行る以前から、春先になると、例年、花粉のアレルギーを持った人たちがマスクをするので、公衆の場でのマスクは珍しい風景ではなかったが、この頃のようにひとり残らず、皆がマスクをして、マスクをしていないと非難する人まで出たのは初めてのことではなかろうか。

 アメリカなどではマスクをする習慣がなく、マスクをしていると顔を隠して悪事でも企んでいるのではないかと疑われるような雰囲気さえあったようで、コロナが流行りだしてからも、マスクの予防効果が広がるまでは、マスクをしない人も多かった。ずっとマスクを嫌がったトランプ大統領が黒いマスク姿で現れたのがニュースになったぐらいである。

 それに、マスクをしていたにしても、人種差別反対のデモなどには、大勢の人が集まって大声で主張を繰り返したりしているし、共和党の選挙集会などでは、トランプ大統領をはじめ、マスクをしない多数の人たちの集会も行われているようである。

 それらに比べると、日本では完璧と言って良いぐらい皆が忠実のマスクをするのを守っている。政府の勧めがあって始まったことではあるが、強制されたものではなく、感染が怖いので自主的に始めたものであろうが、それがいつまでも忠実に守られている。

 私は毎朝のように、朝早く広々とした大きな川の堤を散歩するのだが、時々、出会う人が皆揃ってマスクをしているのに驚かされる。誰もいない、広々とした開けっ広げな空間で、気持ちの良い空気に溢れている所で、どうしてマスクをするのか聞いてみたい気さえする。日本では外出する時にはマスクをするべきものと、皆が決めているかのようである。

 日本では、世間で決まったことは無言で守らなければならない「むら社会」の掟が、今もなお生き続けているようである。マスクをしない人の対しては苦情が寄せられたり、嫌がらせが行われたりすることもあるようで、「自粛警察」という言葉さえある。

 マスクをすると多少息苦しい感じがするので、出来ればしたくないが、マスクをしなければならないことになっているので、仕方がないからしているといった人もいる。マスクはつけてはいるものの、あごの下に下ろしていたり、口だけ覆って、鼻腔はマスクの上から覗いているような人もいる。今やマスクは感染予防のシンボルであり、実際の予防効果より、マスクをしていることが大事なのである。

 もちろん、マスクさえしていれば感染を完全に防げるものではない。大抵の場合、マスクと顔面には隙間があいているし、うまく密着していても、微小なウイルスが通り抜けるのを完全に遮断できるわけではない。咳や唾液など大きな粒子の飛沫を避けられるだけである。

 それに、飛沫より接触感染で、汚染された物品を介しての感染の方が多いとも言われるぐらいで、手洗いや、手で顔を、殊に目や鼻、口などを触らないことの方が大事だと言えるかも知れない。それでも、あちこちの施設の出入り口に置かれた消毒用のスプレーを利用している人は、マスクより少ないように見受けられる。

 日常生活の中で必要なことを続けて守っていくためには、習慣にしてしまっておくことが必要なので、どんな場合にはマスクをして、どんな場合にはしないと、いちいち判断するのは煩わしいだけでなく、つい失念し勝ちなものだから、マスクをするのも習慣にしておけば無難なので、外出するときにはマスクと決めておくのも悪くはないであろう。

 予防というものは完璧を期しても出来ないものである。いくらマスクをしていても、手を洗っても、完全にウイルスを遮断出来るものではない。多くの知識の中の大事な点だけ押さえてそれを守り、あまりに神経質にならないことも必要であろう。90%守られれば良いとすべきであろう。リスクをゼロにすることは出来ない。

 コロナが流行っていると言っても、800万人の大阪で感染者は、これまでの合計でも、高々2万人ぐらいに過ぎない。死者も出ているし、高齢者は重篤になり易いので、十分注意することは必要だが、必要以上に恐れるのもよくない。

 予防に関しては誰の知識も完璧ではない。自分のしているマスクや手洗いが実際にどれだけ感染を遮断しているかは定かでないが、マスクを始め、三密を避けるとか、不要な外出を控えるとかの注意は、自分で判断して決めることが大切である。自分で決めたことは結果がどうあろうとも、自分なりに納得出来るからである。

閉じ込められたウサギ小屋

 従来から都会の日本の家は狭くて「うさぎ小屋」だと揶揄されてきたが、最近の新築の家を見ると、益々その感が強くなる。不動産屋さんの話によると、地価が高くなったせいもあるが、最近の若い人の考え方では、夜帰って寝るだけだから、庭は手入れが面倒だから要らない。30〜50坪の土地でも、建物が建てられさえすれば、それで良いと考える人が多いのだそうである。

 それなら、いっそマンションの方が良いということになりそうだが、マンションだと、建物の維持管理についてだけも、同じマンションの住民との付き合いもあって煩わしい。やはり、狭くても、自分の土地に自分の家というのが要らぬトラブルを考えなくても良いし、自分の好きなように暮らせるので、やはり持ち家に越したことはないと考える人が多いらしい。そのためか、東京や大阪などの鳥瞰図的な、広角度の写真などを見ると、マンションが散在する間の空間はすっかり細々とした住宅に覆われ、殆ど緑のない、雑然とした白っぽい灰色一色に覆われて、それが際限なく続いている感じである。

 以前であれば、どんなに住宅が建て込んでいる地域でも、もっと緑が散らばって見えたものだが、今は100坪ぐらいの単位の宅地さえ、二分割されて、そこに敷地一杯の家が二軒建てられることとなり、新たな住宅地では、最早、緑が顔を覗かせる隙間もなくなって来ているようである。それどころか30坪ぐらいの土地に3階建ての家が隙間なく続いているような地域も多くなった。

 しかも、最近の家の建物は益々閉鎖的になってきている。狭い土地一杯に建物が作られるので、隣の建物との距離が近過ぎるので、あまり大きな開口部を作ることが出来ない。昔はどこの家にもあって日本の家の特徴とされて来た縁側などは、最近の家では考えられない。敷地にゆとりがなければ、隣の家や道行く人から家の中が丸見えになってしまう。

 縁側どころか、昔からどの家にもあった、両開きの窓ガラスの普通の窓さえ、最近の建物では姿を消しつつある。それに替わって、最近の新築の家では、殆どの窓が人も通り切れないような、狭いスリット型の窓ばかりが多くなっているようである。密集したウサギ小屋は狭いばかりではなく、外から見れば、窒息しそうな閉鎖的な構造になっている。

 もともと日本の家は南方式で柱で支えられた、壁の少ない開放的な建て方で、隙間も多く、夏に適していて、冬は寒い建物であったが、最近の建物は殆どが2x4の伝統を受け継ぐ、壁で支える建物で、夏よりも冬に適した建て方になってきている。

 極暑の国に冬型かと疑問にも思われるが、今ではクーラーなどが完備しているので、開口部を広くして外気を取り入れなくとも、空調で室内温度は管理出来る。最早、夏も自然の風より、人工的な空調で室内環境を整えられるので、むしろ窓などの開口部は狭い方が良いことにもなるのであろうか。

 かくて、住居は外部からの視線を防ぎ、室内環境を整えた閉鎖的な構造の方が良いことになる。昼間が不在で、夜だけの生活が主だということのなると、留守宅の安全確保の上でも、更に閉鎖的な家の方が好ましいことになる。建物の如何によらず、今ではもう昔のような向こう三軒両隣といった人間関係もない。「隣は何をする人ぞ」の人達が住んでいるのであれば、益々自宅は閉鎖的な方が好まれることになるのであろう。

 最近建てられた家を見ると、決まって狭いスリットのような窓しかあいていない、人を拒絶するような、取り付く島もない冷たい外観の建物ばかりである。そんな家がずっと続いている。以前の長屋の風情ではなく、小さな家が密集しているのに、何か冷たくよそよそしい感じの街になってしまっている。

 何も変化のない平和な世の中が続いていれば、それでも良いかも知れない。しかし、何か異変があれば、頼れるのはやはり隣近所ではなかろうか。それに自宅から火事が起こっても、あの人が通れないような細い窓だけでは、そこから逃げることも出来ないのではなかろうか。

 他人事ながら、「人は一人では生きて行けない」「遠くの親戚より隣の住民など」とも言われる。いつまでも平穏な日が続くとは限らない。個人主義のために、建物が閉鎖的なのは良いが、事実は知らないが、せめて向こう三軒両隣ぐらいは、お互いに助け合えるぐらいの人間関係は作っておきたいものである。

夢に出てきたコンピューター

 嫌な夢を見た。パソコンで何か自分のお金で、何か買い物か、送金だか分からないが、兎に角、お金の操作をしていた。パソコンの操作に慣れていないし、お金を扱っているので、殊の外慎重に、一つ一つポツポツとキーを押しては、次の操作の指示を見て、また打っていくのだが、途中でキーの押し方が悪くて打ち直したり、パソコン上の指示が分かりにくくて、手間取ったりして、イライラしながら操作していた。

 お金のことなので間違いがあってはいけないので、殊の他慎重になって、緊張しながらやっていたが、最後に近くなって、これでやれやれという所まで来て、次にキーを押すと、画面が一瞬に変わって、何か分からない画面になってしまった。

 大金だったのに、それが一瞬に消えてしまって、それでうまく処理されたのかどうかわからない。念の為もう一度確かめようとするのだが、もう始めの画面に戻っても、前の画面が出ず、確かめようがない。金額の表示も何も出ない。

 これは大変と慌てるが、近くには誰もいないし、パソコンは関係のないような画面が出ているだけで、もうどうして良いか分からない。誰に聞くことも出来ない。慌てて、パソコンを手当たり次第にあちこち画面を開いてみても、もうどうして良いか、手がかりさえ掴めない。元のお金の画面からは、その大金は既に消えてしまっている。どこへ行ったかわからない。何処にあったのかという証拠もなくなってしまっているのかも知れない。

 青くなって、エライコッチャと思った所で目が覚めた。びっしょり冷や汗をかいていた。夢だとわかってやれやれと思ったが、どうも先日、アメリカにいる孫の学資の送金で、銀行で係りの人に助けて貰いながら、慣れないパソコンの画面での手続きをした時の混乱した記憶が頭に残っていて、それが夢に出てきたのであろうか。

 やがてビットコインのような電子マネーが普及し、殆どの取引がオンラインになるとか言われている。ITなどに弱く、パソコンの操作さえ満足に出来ない年寄りはどうなるのであろうか。詐欺に乗せられなくとも、うっかりすると、パソコンの操作の誤りで、一瞬にして大金を失うようなことも起こりかねないのではなかろうか。

 パソコンでモタモタ手続きをしている間に、ふと、そのようなことが頭をよぎったので、その恐怖が夢に現れたのであろうか。

 

優生保護法による不妊手術被害者に救済を!

 

f:id:drfridge:20200701155514j:plain

 

 旧優生保護法(1948~96年)下で不妊手術を強制されたとして、東京都の北三郎さん(77)=活動名=が国に3000万円の国家賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は30日、請求を棄却した。

 原告は57年に強制的に不妊手術を受けさせられた。原告側は、手術は憲法13条が保障するリプロダクティブ権(性と生殖に関する権利)の侵害に当たり、国は賠償義務を負うと主張。さらに、国と国会は、被害回復のための立法が必要だったのに怠る立法不作為があったとも訴えていた。

 これに対し国は、手術から60年余が経過しており、不法行為から20年で損害賠償の請求権が消滅する「除斥期間」が経過していると反論。立法不作為についても、原告は国家賠償法に基づいて被害回復を求めることができたため、別の補償制度の立法が必要不可欠だったとはいえないと主張していた。

 以上が新聞に載っていた記事であるが、法的にはこういう結論しか出ないにしても、国が犯した人道上の誤りははっきりしている。それも、戦後、この国が国民の人権を重んじる民主主義国家になってから、国会で審議された上で、作られた法律によるものなのである。

 当時の優生保護法は劣悪な遺伝子を持った子供の出生を断ち、優れた子孫を育てるのが国家の義務であるというもので、この優生遺伝保護思想の社会的な合意の上に推進されたのである。しかし、現時点から見れば人権侵害であることは明らかである。国家も誤ることがあることを認識することが何よりも必要で、それに対処するにはどうすべきかがが次に問われることである。

 国家が与えた回復不可能な損害に対して、国家が如何に補償するべきかが問われているが、それに対して通常の通りの法的処理で、国が定めた賠償の請求権の期限が過ぎているからという理由で、請求を棄却しただけで良いものであろうか。民主主義を標榜する国としてあまりにも無責任ではなかろうか。

 法律の手続きのことことはわからないが、人道的には、国は自らの明白な過去の誤りついては、もっと明確な謝意の意思表示と共に、それに対する充分な補償をすべきだと思うがどうであろうか。