森友学園問題は終わらない

 森友学園問題に絡んで安倍首相の「妻や私が関与していたら私は総理も議員も辞める」と言ったことは国民は今だにはっきり覚えている。それを言ったばかりに、財務省が忖度させられて、関与を裏付ける数々の公文書の改竄・隠蔽が行われたことも明らかになっている。

 ところがその時の財務省の責任者である佐川理財局長は国税局長官に栄転し、財務省の責任も結局誰一人問われていない。責任は近畿財務局に押し付けられ、そこでもまた佐川局長の指示により改竄に関与した職員は、後に全員転勤させて逃がし、抵抗したが加担させられた一人だけに尻拭いを押し付け、結果として、当人はその負担に耐えられず、鬱になり自殺するという痛ましい事件にまでなった。日本の官僚の典型的な身の処し方である。

 この事件が2017年のことである。それ以来、加計学園問題、桜を見る会問題、検察庁停年延長問題等々、安倍内閣の不正疑惑が次から次へと続き、その上、この2月からは新型コロナ感染症問題まで起こって、今や森友学園問題もいささか影が薄くなった感も否めないが、首相の嘘を官僚が真実を曲げて忖度し、そのために死人まで出すという異常自体は決してこのままで終わらせてはならない問題である。

 誰も罰せられなくとも、少なくとも真実の解明はしておかねばならない。そういう意味で、犠牲になった赤木氏の未亡人が夫の書き残した手記を公開するとともに、元理財局長の佐川氏と国を提訴したのは勇気ある行動であり、成り行きは注視しておくべきであろう。出来れば佐川元局長の再証人喚問をして、前回は告発に絡んで陳述出来なかった事実を国民のために是非明らかにして欲しいものである。

 これに対する安倍首相の反応は「大変痛ましい出来事で、本当に胸が痛む。改めてご冥福をお祈りしたい」というもので、その上で「財務省で麻生(太郎)大臣の下で事実を徹底的に明らかにしたが、改ざんは二度とあってはならず、今後もしっかりと適正に対応していく」と述べたそうである。

 果たして自分の虚偽の行為や発言がいかなる悲劇を招いているか分かっているのであろうか。独裁者でなければ、事実を明らかにして国民に詫びて欲しいものである。それまで森友事件は終らない。

「お庭の幼稚園」の頃

 歳をとる程に、過去の記憶も積もっていくが、片方では、それらの記憶もどんどん忘れられていく。脳は自然と記憶の容量を調整しているのであろう。

 老後の単調な生活になるにつれ、昨日何処へ行ったか、一昨日何をしたかといった日常の些細な出来事はすぐに忘れ去られていく。認知機能が衰えると、つい先ほど食べた昼食の記憶さえすぐに何処かへ飛んでいってしまう。

 しかし、その割には、遠い昔の若い時の記憶は案外残っているものである。殊に自分にとって衝撃的であったり、印象の大きかった出来事などは、形が変わって、歪められていても、それなりに長く残っているものである。

 母は90歳を過ぎてからも、何かにつけて県庁横にあったという「記念碑を知らんかね」と繰り返し話していた。どうも、女学生時代に県庁の横に日露戦争の記念碑でもあり、そこを曲がって学校へ行っていたらしく、それが通学路のシンボルであったようである。大正のはじめ頃の話である。

 また、グループホームにいる94歳になる姉は、車椅子で連れ出して、近くの長居公園に行く毎に「戦争中は兵隊さんが沢山いてな・・・。今でもそこらから兵隊さんが飛び出してくるようだ」と繰り返し言っていた。

 私にとっても、子供の頃の戦前の記憶は、もう断片的になってはいるが、それぞれが古い動画の一場面のように次々と浮かび上がってくる。勿論、私の大きな記憶は何と言っても、大阪大空襲や広島の原爆その他、戦中戦後にまつわるものであるが、ここでは、それよりももっと古い子供の頃のことを思い出してみよう。

 この間このブログに、子供の頃に覚えた「故郷の歌」について書いたので、序でに、幼稚園の頃を思い出して見た。私が通っていたのは「お庭の幼稚園」と言って、キリスト教系の個人経営の幼稚園で、阪神電車の香櫨園の駅の近くにあった。先日に書いたように英語の歌なども教えられたが、確か1年間だけだったからか、当時の様子はもう殆ど覚えていない。

 ただ覚えているのは、園の庭の塀の近くで遊んでいたら、塀の下の隙間から外からジョウロで水をかけられたことである。幼稚園の隣には園長さんの姉さんが住んでいて、時々園児にも意地悪をすると聞いていたが、その時は友達と話しただけで、園長さんに言うことも出来ず、そのまま我慢したように思う。

 今から思えば、園児たちの間に、園長さんと姉さんは仲が悪くて、時に姉さんが園児にも意地悪をするという噂があったので悪くとったが、今から思えば、水をかけられたというのも、恐らく、姉さんは幼稚園の隣の自分の庭の塀寄りに花壇を作っていたので、花へ水をやる時に幼稚園側にも飛沫が飛んで来ただけのことだったのではなかろうか。

 それと、当時のことで思い出すのはもう一つ。戦前の我が家には「ねえや」と呼ばれる女中がいたが、その「ねえや」に連れられて二人だけで出かけた時、香櫨園の駅の近くの踏切の手前で、バスが来る前方の道を急いで横切ろうとして、私が躓いて転び、目の前でバスが急停車してくれて助かったことがあった。今から思えばそれほど切羽 詰まった状態ではなかったようだが、家へ帰ってその話をすると、「ねえや」が怒られるので、二人だけの内緒にしておこうと約束したことがあった。

 その他のその頃の思い出としては、昭和9年の室戸台風で、家の板塀がまるで紙のようにめくれて吹き飛ばされ、斜め向かいにあたる銀行役員の大きな屋敷の、庭の松の木が倒され、門の屋根を直撃した光景が浮かぶ。また家の近くの、他の屋敷の塀と溝との間の狭い空間で、近くの子たちとよく遊んだこと。当時は近くで宅地造成が盛んで、牛車が何台も並んで土を運んで来て、田圃を埋め立てていたこと。その近くの未舗装の道路を土煙を上げて走ってくる車の前を横切って走って渡ったことなど断片的だがいろいろ思い出される。

 こんなこともあった。近くを阪神電車が走っていたが、恐らくそこに信号があって、決まった所で電車が時々止まったのであろうが、それを見て「運転手さんの腹痛で止まったのだ」と誰かが言ったのを聞いて、「運転手さんがまた腹痛を起こしたよ」などと言い合ったこともあった。

 父親が部下の社員を家に招待したこともあった。その一人が私を膝の抱いてくれたことも、なぜか覚えている。当時の医者は人力車で往診するのが普通であり、近くの家の前に人力車が止まっていると、あそこの家で誰か病人が出たと噂をしたりしたものであった。夕方薄暗くなった頃に、いつもとは反対の方角から父親が帰ってきたことも何故か思い出される。どれも断片的に過ぎないが、当時の光景が次々とアトランダムに蘇ってくる。

 どれも取り留めもないことばかりだが、今となっては遠い昔の懐かしく思い出される記憶の断片である。

自宅に蟄居した冬

 昨年の10月半ば頃から脊椎管狭窄症で歩きにくくなり、初めのうちはしばらく歩くと、右足が痛くなり立ち止まらなければいけなかったが、少し休むとまた歩けたので、杖をついて、まだ大阪までも出かけていた。ところが、今年になると、じっとしていても、右足の痛く痺れた感じが強くなって来て、普通に歩ける距離も短くなって、家から駅までどころか、電信柱毎に立ち止まって休まなければならなくなり、どうにも歩けなくなって仕事の約束まで断らなければならなくなってしまった。

 それでも何とか歩けなくてはと思い、色々脊椎管狭窄症に良さそうな体の動かし方や運動などを工夫したり、庭を周遊しては歩く練習をしたり、杖をダブルステッキにして歩いてみたりした挙句に、最近はシルバーカーを買い、それを押して歩いてみたりと、色々試みている。 

 手術という手もあるかも知れないが、この病気の人のこれまでの経験では、手術でうまくいかないケースも多いようだし、年齢のことも考えると気が進まない。それでも、もう一度は診察を受けて、意見も聞かせて貰おうかとも思い、病院の予約をしたが、いつかけても電話が繋がらない。足が悪いので直接行くのも大変だと思ってそのままになっていた。

 そうしたところへ、今年は2月から急にコロナビールス肺炎の騒ぎである。もう病院へ行くどころではない。病院の外来などは一番感染を受けやすい場所である。この上、コロナビールスまで貰ってはたまったものではない。日本国中が大変なことになってしまっている。学校も劇場も美術館も皆閉鎖され、大相撲は観客なしで春場所が行われているし、高校の選抜野球は中止になった。プロ野球やサッカーもシーズンの開幕を遅らせたようである。大勢の人が集まる所は殆どが閉鎖されてしまい、色々な会合も次々に中止になっている。何時も賑わう繁華街もガラガラ、あれほど多かった海外からの観光客もすっかり姿を消してしまった。

 そのために観光業や運輸業ばかりでなく、製造業も部品の調達ができず、人の交流が出来なくては仕事も進まず、大企業がうまく回らなければ、中層企業への皺寄せはもっとひどく、さらには個人経営者や非正規労働者フリーランスの人たちは生活の基盤さえ危うくなり、株価の急落でもわかるように、経済の先行きさえ危うくなって来ている。

 今年は三月初めに由布院へ行くことにしていたのを足が悪いためにキャンセルしたところだったが、今度はコロナのために、我が家が冬の予定にしていた音楽会や歌舞伎も全て中止になってしまった。医師会の勉強会や会合も取りやめになったので、結果として、この冬は何処へも行かずに自宅でずっと蟄居することになってしまった。足が悪くて、丁度良かったのか、悪かったのか。毎月欠かさず行っていた箕面の滝行きも、一月はダブルステッキで途中の休憩所まで何とか行ったが、二月にはとうとう行けなかった。

 思うように歩けないほど辛いことはない。足が悪くなると、どこもかしこも遠くなってしまう。家から駅まで4〜500米ぐらいなので、以前はそんな距離を気にしたこともなかったが、間欠性跛行で杖をついての歩行では、痛くなった足を休ませる毎に、目的地が未だあんなに遠いのか思わざるを得なくな理、容易に辿り着けないのが情けない。

 幸か不幸か、脊椎管狭窄症とコロナビールス肺炎(COVID19)が重なって、今年の冬は殆ど遠出せず、寒い間ずっと自宅でおとなしくしていたことになったが、新兵器のシルバーカーを押して歩いてみると、案外休まなくてもこれまでよりは長距離歩けるので、なるべく練習して、暖かくなれば、もう一度箕面の滝にも挑戦してみたいと思っている。

時の経ち方

 いつか、このブログにも歳をとると時の経つのが速くなることについて書いたが、最近の出来事ほど時間の経過が速く、過去へ遡れば遡るほど時間が長く感じられるようである。

 客観的な時の流れる速さは永遠に変わらないが、主観的な時の経ち方は時と場合によって、随分と違って感じられるものである。一般に、過去の時間が短く、先の時間の長いことは、子供の頃の「もういくつ寝たらお正月」という歌でもわかるように、期待の大きなものは待ち遠しくて仲々やって来なかったものである。

 もっと長い人生について見ても、子供の頃の時間と老人の時間では、随分と時の経ち方が違うようである。子供の頃は学校から帰って、ランドセルを放り出して遊びに出て、散々遊んで、やっと日が暮れる感じだったのが、老人になると朝起きて朝飯を食い、ゴソゴソしている間にすぐに昼食の時間が来、昼寝をしたり、少し散歩をしたりしていると忽ち日が暮れて1日が終わってしまうこととなる。

 毎日、日記をつけているが、つい書き忘れて、気が付けば、忽ち2〜3日過ぎてしまっており、一昨日何をしたか思い出せなくて困ることになる。何処かへ行った日がつい昨日かと思っていたら、もう1週間も前のことになっている。80歳から90歳までの10年間などあっという間に過ぎてしまい、周りにいた友人たちもあらかた死んでしまった。

 東日本大震災の時にテレビを見ていて、原子炉が爆発してもう日本は終わりかと思ったり、津波に追われて先に山の上に逃げた人が、後から登ってくる人に、必死に「早く、早く」と叫んでいたのを見たのも、つい昨日のことのようである。今も頭の中には、はっきりとその映像が残っているのに、実はもう9年も前のことなのである。

 阪神大震災で、三宮の商店街が潰れ、ビルが倒壊し、生田神社の鳥居が倒れたのを見たのも、その前年にカリフォルニアの地震があり、その直前に生まれた孫がもう25歳になるのだから、つい昨日のことのように思えても、もう4分の1世紀も昔のことなのである。

 それに対して、子供の頃の時間は長かった。私が子供の頃には、東郷平八郎の写真が居間にあったし、乃木大将や広瀬中佐などの日露戦争の話をよく聞かされた。また、関東大震災の時に大勢の人が被服廠趾で焼死したとか、浅草の十二階が倒壊したとかの話を聞かされたし、東海道線で東京へ行った時も、丹那トンネルを超えると、震災の被害のために、どっしりとした昔からの農家の建物でなく、バラックのような建物ばかりなのだと説明されたりしたものだった。しかし、いづれも自分が生まれるよりも前のことで、自分には関係のない、随分昔の出来事だと思っていた。ましてや、明治維新などとなると、遥か彼方の歴史上の出来事としか思えなかった。

 ところが、暦の年代を見れば、日露戦争は1905年、第一次世界大戦の終了が1918年。明治維新でさえも1868年と、未だ百年も経っていない過去の出来事であった。関東大震災となると1923年なので、私が生まれるより僅か5年前のことに過ぎなかったのである。東日本大震災からでさえもう9年も経つのである。私が子供の頃には、まだ人々が噂をしていたのも当然であったわけである。

 我々の世代には第二次世界戦争と敗戦、大日本帝国の消滅いう大きな試練をくぐり抜けなければならなかった運命があったので、戦前と戦後ではっきりと歴史に線が引かれてしまっているので、それによって時間感覚も変えられてしまっている向きもあり、それが戦前は遠く、戦後は近い今に続く歴史になっている面もあるのであろう。

 60代の時、何かの話を頼まれた機会に知ったのだが、丁度その時が敗戦から40年後に当たっていたが、振り返ってみると、日露戦争から敗戦までも40年と丁度同じなのを知って驚かされたことがあった。日露戦争は遥か昔の話だと思っていたのに対して、敗戦から40年というのは私にとっては、まだまだ戦争の影が色濃く残っていた身近なことだったからである。

 自分に関係の深い事柄はいつまでも忘れ難く付き纏うのに対して、関係が薄くなる程、距離が自然と遠くなり、それに纏わる時間の感覚も遠くなって行くものらしい。そうとすれば歳をとって次第に時間の経過に加速度がついていくのも、老人が次第に娑婆を離れてあの世の飛んでいく過程の表れなのかも知れない。

金ピカの過疎地

 東日本大震災からこの3月11日でもう丸9年になる。それを期して、新聞やテレビにも福島や岩手の原発事故や、津波による災害からの復興状況などの記事にあふれている。

 常磐線は全線復旧したし、三陸を縦貫する沿岸道路も着々と作られているそうである。爆発した原発の後処理はいまだに進んでいないが、周辺の放射能汚染による帰還困難地域も狭められてきている。三陸海岸津波に襲われた地域には巨大な防波堤や山を削った盛り土による嵩上げ工事も完成しつつある。鉄道の駅も町役場も新しくなり、昔の街とはすっかり変わってしまたようである。この国の得意とする土木工事の本領発揮で、大掛かりな復興工事はそこそこ順調に進んでいるのであろう。

 政府はしきりに復興を強調するが、人々の様子を伺い、いろいろな意見を聞いていると、どうも何か喜べないものがある。被災地の復興を示す写真や記録を見ても、土木関係はは復興しても、人が戻ってこないので、過疎は一層進んでいるようである。新聞のコラムにも、「復興はコンクリート優先、聳え立つ防潮堤、山あいを貫く自動車道の威容を横目に、人口が減る街の模索が続く」とある。

 足らないのはまさに取り残された避難民である。肝心要の人々の心の復興が置き去りにされているような気がしてならない。新聞のどこかに誰かが「金ピカの過疎地」と言っていたが、うまく言ったものだと感心した。

 政府の進めた復興と避難した住民達にとっての復興との間に大きなギャップがある。住民達が高すぎて海が見えないとした防潮堤は、予測される津波の高さに基づいて、住民の意見は無視されて聳え立つような堤が作られ、避難者達からは私の故郷はこの盛り土の下にあるとも言わしめている。

 新聞の写真を見ても、駅や役場の庁舎はモダンな建物に建て変えられているが、新たに開発された住宅地には、家が少なく空き地のままである。もう昔の故郷は無くなってしまっている。もともと過疎地であった所から追い出されて、他の場所に生活の根拠を移さざるを得なかった住民達が、やっと築いた生活基盤を再び変えることは至難の技であろう。故郷は帰りたくとも帰り難い所になってしまっている人も多いだろう。

 政府は、それでもアンダーコントローと言って獲得したオリンピックを復興五輪と称して、聖火リレーも東北から始めることにしているが、聖火の通るコースだけが、通りも整備されているそうである。

 力の弱い過疎地の人々の意見を聞かず、中央政府や、それに群がる利権に振り回された復興を「金ピカの過疎地」とはよく言ったものである。人のいない「金ピカの過疎地」は時とともに次第にくすんで復興の夢も虚しく、昔以上に過疎化し、災害の記憶の薄らぐのとともに、次第に荒廃に向かっていくのではなかろうか。

 

兎って美味しいの?

 「故郷の歌」として有名な「兎追いしあの山、小鮒釣りしかの川、夢は今も廻りて、懐かしきは故郷」という童謡は、日本人なら誰でも知っている歌で、私もこの歳になっても未だに忘れられないでいる。

 古い歌なので、もう今では老人ホームぐらいでしか歌われないのではなかろうかと思っていたら、今でも幼稚園などで子供たちに教えられているようである。先日テレビだったかに、この歌について、子供が「うさぎっておいしいの?」と聞いた話があった。この歌が出来てから100年にも近い年月の間に、社会はすっかり変わってしまい、今ではこの歌の内容もすっかり非現実的なものとなってしまっているので、果たして今の子供たちが、この歌をどのように受け止めているのか疑問である。

 私が小学校の頃には、学校の行事として、箕面の六個山の頂上近くで、子供たちが麓の方から輪を作って、大勢で野兎を巣から追い出し、次第に輪を縮めて、山頂に追い詰めて、そこで兎を捕まえるということをやった経験があるので、私たちには、野兎がどんな処にいて、それをどうやって捕まえたのか、漠然としたものであるにしろ思い出がある。

 また、その頃の郊外は今と違って、自然が豊かだったし、田畑の間を流れる小川は、まだ今のように、コンクリートや鉄柵で守られているようなことはなく、自然のままで、子供でも自由に川に入れるのが普通であった。子供たちは、そんな処で小魚や蟹などを追いかけて捕まえたりして遊ぶのが普通であった。

 そのような環境の中で育った子供たちであるからこそ、この故郷の歌が自分の子供の頃の思い出として懐かしく感じられるのであり、私と同年輩ぐらいの人たちであれば、仮に実際に経験したことのない都会の子供であっても、何かにつけて見たり聞いたりした経験から、その情景を想像することが出来ることも多かったであろうと思われる。

 しかし、今の子供たちにとっては、当時とはすっかり生活の背景が変化してしまい、山野の姿も昔とはかけ離れてしまっている。もう都会の近くの山には兎はいないし、郊外へ行っても至る処がコンクリートで固められ、子供に危険だからと言って、小川も池も、殆ど全ての場所が金網などで囲まれ、近づくことさえ出来ない。

 日常生活でも、今の子供たちは遠足にでも行かない限り、自然と触れ合う機会さえなく、野兎など見たこともなく、小川で小魚や蟹などを見ることがあっても、近づいて追っかけたり触ったりする機会も希にしかない。今では子供たちの親の世代ですら、昔の野山を知らない人が多いのだから、ましてや、今の子供たちにとっては「故郷の歌」などは自分とは全く関係のない別世界の話になってしまっている。

 野山で野兎など見たことがなければ、「うさぎおいし」と言われても、網の中に飼われた兎を追っかけることはなさそうだし、直感的に兎は美味しいのかなと思っても当然ではなかろうか。私のPCで「うさぎおいし」と打って、漢字変換すれば、まず出てくるのが「追いし」ではなくて「美味しい」なのだから、子供たちの想像力の方向も当然とも言えるであろう。

 子供は分からない言葉でも、音だけ聞いて簡単に覚え、それを自分の知っている言葉と比べるものである。「追いし」を「美味しい」と読むのと同様な経験は子供の時の私にもある。

 私が通っていた幼稚園はキリスト教関係であったためか、「Good Morning to You」とか「Happy Birthday to You」などとか歌ったが、「to You 」を「つーゆー」と歌っていたので「お汁」のことかとばかり思っていて、何故か味噌汁の歌のような気がしてならなかったことを今でも覚えている。

 私にとっては懐かしい「故郷の歌」も最早遥か彼方に消えてしまい、今の子供たちとは全く関係のない世界の歌になってしまったようである。消えていく郷愁を残念に思うが、歴史の時間は冷酷である。もはや帰らない昔の思い出はそっと心の奥に秘めて、冥土のみやげにしようと思っている。

 

アジアの国への日本の負い目

 テレビで松下幸之助が話していた。戦争に負けたら、普通は奴隷にされたり、酷い世の中がずっと続くのが当たり前だが、日本は戦後早々から助けられて、このように復興した。これはたまたま運が良かったためで、これはいつまでも続かない。これから新しい時代に入って行く。そこでこそ、日本の真価が問われる。それに備えて松下塾を作ったのだと言っていた。

 戦後すぐの頃のアメリカのアジア政策は、日本の軍国主義を徹底的に潰し、二度と戦争など出来ない三等国にするというものであった。それにより、まだ蒋介石の時代であった中国に、日本に残っている工場設備などを持って行って移設する計画などもあった。

 ところが、中国で共産革命が成功し、朝鮮戦争が勃発したことで様相が変わった。日本はアメリカ軍の絶好の兵站基地となったのである。遠いアメリカから物資を運ぶより、それなりのノウハウもある日本で砲弾や鉄砲の弾などを作って供給する方がずっと安上がりに済むわけである。

 現在ときめくような日本の企業も、この時代にはこれに飛びついて、全面的に協力し、それが戦後の産業復興の足がかりとなったのである。その頃占領されていた伊丹空港に、どれだけ袋詰めにされたアメリカ軍の戦死者の遺体が運び込まれたことか、今では知る人も少ない。

 この朝鮮半島の人々に莫大な犠牲を強いた朝鮮戦争のお蔭で、日本は荒廃した産業の復興を遂げるきっかけを得たのである。アメリカとしては実際の戦闘にも、日本人をもっと協力させたかったのであろうが、アメリカ主導で平和憲法を作ったばかりだったので、占領政策を一転させたが、すぐには警察予備隊と称した自衛隊の走りを作るぐらいのことしか出来なかった。

 朝鮮半島の人たちには申し訳ないが、日本にとっては幸運だったわけである。尤も、影でアメリカに協力させられて亡くなった日本人のいたことも忘れてはならないであろう。今や政府は憲法改正を声高に叫んでいるが、平和憲法のお蔭で犠牲無しの発展が可能になったことに感謝すべきであろう。

 朝鮮戦争が終わると、今度はべトナム戦争が起こり、ここでもアメリカは沖縄の嘉手納空港をはじめとして、日本を後方基地として使い、当然、日本も協力させられた。通常の武器、弾薬やナパーム弾、枯葉剤などの製造を始め、あらゆる面で協力させられた。

 しかし、この時も平和憲法のおかげで、自衛隊などが直接戦闘には関与するようなことはなくて済んだ。韓国が軍隊を派遣させられ、残虐行為なども起こり、多くの犠牲者が生じたことから見ても、平和憲法があった有難さがわかるであろう。

 戦争で血を流さずに、武器やその他の兵站にだけ関与するほど儲かることはないのである。第一次世界大戦においても、日本の産業界は大儲けをしているのである。ベトナム戦争の時にも、日本は多くのベトナム人などの壮絶で悲惨な犠牲の上に、経済成長を遂げることが出来たと言えるであろう。

 こうしてみると、日本は大日本帝国の時代に台湾や朝鮮半島を植民地化し、中国をはじめ、多くのアジアの国に侵略戦争による多大な損害を与えただけでなく、戦後においても、朝鮮半島ベトナムなどの多くの人々の犠牲の上に、他のアジアの国を差し置いて早く復興し、経済大国になって行ったことがわかる。

 侵略戦争に対する反省や謝罪について「いつまで謝罪するのか」と言った問題や、「今の日本人が謝罪する必要はない」というような話もされるが、こういう歴史的な事実も知って、アメリカに対する卑屈な態度の裏返しのように、アジアの国に対しては傲慢に対処しようというのではなく、過去の負い目も知り、謙虚にアジアの国に向き合うべきであろう。

 戦争を知らない現在の世代の人たちが過去の侵略行為などを謝る義理ははないが、二度と同じようなことを繰り返さない責任は自覚しなければならない。憲法9条のおかげで戦闘に参加せずにすみ、朝鮮やヴェトナムの人々を殺さなくて済んだことは何よりの救いであったが、この経験からも二度と外国で戦うことのないよう憲法を、中でも9条を、守って行くことが大事なことがわかる。

 イソップの少年たちが池の蛙に石を投げる話からもわかるように、加害者はすぐ忘れても、被害者にとってはいつまでも忘れ難いことも知っておくべきであろう。原爆の被害をいつまでも忘れてはいけないのと同様に、侵略の汚点も永久に消えることはないのである。