トランプ大統領の弾劾裁判

 アメリカではいよいよトランプ大統領の弾劾裁判が始まるようである。

直接選挙で選ばれるアメリカの大統領の政治権力は強大なので、もし大統領自らが国を危うくするような不正に手を染めた時のために、建国当初に作られた合衆国憲法以来、議会に審判を委ねる「弾劾」の手続きが盛り込まれている。

 今回のトランプ大統領の場合には、「大統領選挙で優位に立つために外国政府に圧力をかけた」行為が憲法起草者が想定した不正行為に当たるということで、弾劾裁判ということになったようである。

 アメリカの民主主義はこうした弾劾裁判によって、権力のチェック・アンド・バランスで法治を守るようになっているのである。裁判の結果は、上院では共和党が優勢なので、弾劾はおそらく否決されるだろうという予想であるが、こういう記事を見ていると、日本でも、というより今の日本でこそ、こいう権力のチェック機構が必要なのではと思わざるを得ない。

 日本では、選挙によって選ばれた最大政党が総理大臣を決めることになっているので、一旦政権をとった政府は、首相自らが「立法府の長だ」と発言するぐらい、行政府と立法府の区別が曖昧になっており、立法府が行政府を抑えられるのは不信任決議ぐらいしかなく、国民が行政府をチェック出来るのは世論しかない。

 こういう状況下で、7年も続いた安倍内閣は、権力を官邸に集中させ、「議会制の中での独裁」とでも言える権力を築き上げており、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会やその前夜祭の問題についても、都合の悪いことは隠して何も答えず、議会の調査権まで無視して、幼児のごとき虚偽の証言や、証言拒否で臨み、記録は廃棄してないことにしている。

 こういった日本でこそ、アメリカの弾劾裁判のような仕組みがあれば、政府や官僚に真実を語らせ、法に反する政府の悪行を暴き、現政権を追放し、政治の仕組みを変えられるのではないかと夢想しないではおれない。

 

 

 

 

選挙独裁

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 「桜を見る会」やその「前夜祭」問題を、国会での追求に「知らぬ、存ぜぬ」「記録は捨てた」と何も答えず、逃げまわっていた政府は、国会を強引に打ち切って、これで逃げ果せたと思っているのであろうか。「時間とともに国民の理解が得られつつある」などという発言からも、モリカケ問題の経験から、今度も時が経てば忘れられて行くだろうと思っているのではなかろうか。

 しかし、今回はこれで終わりにしてしまってはならない。今回の出来事に政権がとった行動には公職選挙法政治資金規正法に反する疑いがあり、これらは民主主義の根本に関わることだからである。「桜を見る会」やその「前夜祭」に関する具体的な問題については新聞や他のメディアで嫌という程見聞きさせられたのでここでは触れまい。

 その下には、7年にも及ぶ長期政権の間に、政権の腐敗が進み、安倍首相のもとに権力が集中し過ぎて、政権中枢の恣意的な行動に歯止めがからなくなってきてしまっているのが現状であろう。安倍首相は党内での対抗馬を無くし、首相官邸府に権力を集中し、官僚の人事権を握って何かにつけて官僚に忖度させ、警察権を握って司法も抑え、三権分立を曖昧にさせて、都合の悪い情報や根拠は秘匿し、自分の好きなように政治を私物化していると言えよう。

 J.S.ミルによると、「競合する全勢力を抑え込み、全てを自分と同じ鋳型に流し込むのに成功してしまうと、その国の向上は終わり衰退が始まる」というが、今やこの国の政治体制も民主主義的議会制を維持しながらも、崩壊に向かいつつあるのではとも思えてくる。最近は「選挙独裁」という矛盾した言葉さえ見られるようになって来ている。

 これはたまたま安倍首相という特異な人物が出たきて作られて来たものではなく、もっと構造的なもので、この基本となっている構造にメスを入れなければ、この傾向はますますひどくなり、引き返しがつかなくなるのではないかと心配する。

 選挙制度小選挙区制になり、自民党内での派閥の力が弱くなり、総裁である首相の力が強くなったことや、死票が多くなり、得票率と当選率の格差が大きくなって、自民党に有利になったこと。官邸に権力が集中し、官僚の人事権が直接官邸に握られて、官僚の独立性が落ち、首相の意向を忖度せざるを得なくなったことなどが一つの原因であろう。

 更には、内閣法制局の人事まで首相が采配し、法務大臣を通じて司法にも影響力を及ぼし、自ら間違えて「立法府の長」と言わしめた如く、三権分立の民主主義の基本をないがしろにしているなど、制度的な欠陥がこの独裁化に関係しているのであろう。

 ここらで、安倍政権を倒し、このような構造を改めていかないと、今のままでは時が立つ程、変更が困難となり、議会制民主主義は形骸化して、実質的には独裁政治へと進んでいく行く危険性が高いのではないかと心配する。

 先日の朝日歌壇に次のような歌が載っていた。

  年の瀬や途方に暮れる民主主義 (長野県 梶田 卓)

おもてなしと恥

 去る11月20日の朝日新聞の経済気象台という欄に、この「おもてなしと恥」という一文が載っていた。筆者は米国内でも活躍している人のようだが、「おもてなし」について『一見、「おもてなし」とは相手に尽くすことのようだが、むしろその土台にあるのは、自分のせいで相手を不快にすることへの羞恥心ではなかろうか。「おもてなし」とは、他者の前で自己を律するという、実は究極のセルフコントロールの裏返しかもしれないのだ』と言っていた。

 そして、近頃はみづからを律する姿勢が欠如した恥知らずの若者が増えたことを嘆き、来年のオリンピックで「おもてなし」を売りにして外国人客を呼び込み、経済回復をはかろうとする戦略の妨げになるのではないかと危惧されていた。

   思わず、夏頃だったかに、韓国がオリンピックへの「旭日旗の持ち込み」を禁止するように求めたのに対し、対抗意識からか、日本政府は持ち込みを可とし、JOCも認めたというようなことがSNSなどに出ていたことがあり、私が反論したことを思い出した。

 客をもてなすための「おもてなし」の第一歩は、この筆者も言われる通り、「自分のせいで相手を不快にすることへの羞恥心」であり、まずは客が嫌がることを注意深く避けることから始まるものであろう。

 旭日旗を落ち込もうとする人たちは、旭日旗は国旗に準ずるもので、日本国内では色々な場合に使われているものであり、オリンピックや国際競技に使われてもなんら問題はないという。

 しかし、韓国のみならず、アジアの多くの人にとっては、旭日旗はかっての大日本帝国侵略戦争の象徴としての印象が強く、未だに反発する気持ちが強いので、反対する機運が強いのである。

 旭日旗は、かってはその侵略戦争の実働部隊であった軍隊の象徴として、海軍の軍艦旗や陸軍の連隊旗に広く使われていたものであり、戦時を経験した私にとっても、旭日旗は帝国陸海軍と強く結びついて思い出されるものである。ひどい目にあった側の人たちが旭日旗を日の丸以上に嫌う気持ちもよくわかる。

 そうしたことを踏まえて考えるならば、人類の調和や平和を掲げるオリンピックのための「おもてなし」に先ずすべきことは嫌がる客のいる旭日旗の持ち込みを禁止することではないだろうか。オリンピックを別にしても、嫌がる客のいるのに、敢えて旭日旗を掲げるようなことは、掲げる側の羞恥心の欠如とされても仕方がないであろう。

 オリンピックに必要不可欠でもない旭日旗をわざわざ持ち込んで、日本人の品位を落とし、その羞恥心を穢して「おもてなし」を台無しにするようなことは絶対避けて欲しいものである。

固有名詞は仮名書きにしては

 地名や人名には、それぞれ歴史や由緒来歴があるものだから、同じ読み方でも、漢字が違っていたり、漢字が同じでも読み方が違っていたりで、関係のない者が初めて出くわした時には正しく読めなかったり、誤って言って恥をかいたり、失礼になったりすることがあるものである。

 漢字は色々な読み方があるので難しい。限られた範囲の世界の中では、日常茶飯事のごとく流通しいている名称も、外部から始めて来た人にとっては、どう読むのか、どう書くのかわからないことが多い。地域の交流が盛んになるにつれて、問題になることが多くなる。

 もう随分と昔のことになるが、私が子供の時の経験でも、大阪から東京へ転校した時、先生が「楠木正成が”まいかた”で、”まいかた”で云々・・」と言うので、何処のことかと思えば枚方のことと分かりビックリ。また、その後、大阪へ戻ったら、今度は大阪の先生が五反田のことを「ごはんだ、ごはんだ」と言うので、思わず吹き出しそうになったことを覚えている。

 地名はその土地の人にとっては当たり前であっても、他所者には読めないことも多い。娘が東京へ行って青梅街道を”あおうめ街道”と言ったこともあったし、私も富山県の砺波や羽咋をどう読むのか、長い間知らなかった。つい先日には、JRの東京ライナーが「古河行」になっていたので、「ふるかわ行」とばかり思っていたら、アナウンスが「こが行」と言って驚かされたものであった。

 そう言えば、以前に関西の京阪神あたりの難しい地名につて、このブログで書いたことを思い出したが、地名は他所者には難しいものなのに、その土地の人にとっては何でもないことなので、ふりがなを付けていることが少ない。知らぬ土地へ行って土地の正確な読み方を知るには、ローマ字で書かれた道路標識を見るのが一番ということになる。

 地名もそうだが、人名も色々あって難しい。上田と書いてあっても、「かみたさん」もいるし「うえださん」もいる。「うえださん」にも「上田さん」も「植田 さん」もいる。「かみたさん」と呼ばれなければ返事をしなかった上田さんもいたから厄介である。

  苗字も色々で問題も多いが、最近一番困るのは、所謂キラキラネームだそうである。ここには普通には読めない、無理な読み方の名前が多いからである。最近キラキラネームのランキングなるものを見たが、次のようなのが10位以内に入っているそうである。

 日の下に天と書いてコウと呼び、夏空を意味するその文字に、空を加えた二字。これがトップである。2位以下は順に、心愛、希空、希星、姫奈、七音、夢希、愛保、姫星、匠音と続くが、どう読むのかお分かりでしょうか。もう全く判じものの世界である。トップからの読み方は、「そら、ここあ、のあ、きらら、ぴいな、どれみ、ないき、らぶほ、きてぃ、しょーん」だそうである。

 これ程ひどくなくても、普通に読めないような名前は幼稚園の先生泣かせなだけでなく、一生それを背負っていく子どもにとっても、果たして良いことかどうか疑問に思える。極端な例であろうが、「猛神」と書いて「ぜうす」と呼ばれた子は塾を断られたとかとも出ていた。

 こんな名前にしても、苗字や地名にしても、それぞれの事情や歴史もあるものだから、それはそれとして尊重するべきだが、社会的な実用性から見て、こういう固有名詞は本名はそのままにしておいて、公式名だけは皆仮名書きにしてはどうであろうか。

 そうすれば社会的には混乱が減り、ずっと便利になって使い易くなり、しかも固有名詞にまつわる由緒や歴史、色々な思惑なども維持出来るのではなかろうか。この頃はスマホで簡単に変換出来ることもあって、仮名文字への主張も弱くなっているようだが、移民なども増えて、公用語の使い易さが求められるようになって来ている時代でもある。ここらで、公用語としての固有名詞は全て仮名書きにしてはどうであろうか。 

エレベーターで黙って「開」ボタン どうして

 何日か前のこと、朝日新聞を読んでいたら、「論の芽」という欄に、表題の見出しがあり、どういうことかと思って読んで、何か違和感を感じた。

 『エレベーターで知らない誰かと二人きりになった時、降りる階に着くと、黙って「開」ボタンを押してくれる人いませんか。無言で丁寧な「サービス」をしてくれることに、居心地の悪さを覚える』と書かれていた。記事に続けてあるように、『ジロジロみないで目を伏せたり、「開」ボタンを押したりする程度の距離感が日本文化なのでしょう』ということは納得できるが、私にはどうして居心地の悪さを感じるのか分からない。その人の親切心に素直に感謝すれば良いのではなかろうか。

 『そこまで配慮をする人は、きっと相手にもマナーある態度を求めているはずだ。相手がマナー違反だと判断すれば、今度は怒り出すのでは』と感じ、緊張するのが居心地の悪い原因かというのですが、そういう人もいるかも知れないが、通常はそこまで、想像する必要はないであろう。

 私はマンションのエレベーターなどであれば、そんな時、大抵は挨拶の声掛けぐらいはするし、街のビルのエレベーターなどの場合には、大抵は黙っているが、ボタンの近くに居れば、時には何階ですかと聞いてボタンを押すぐらいのことはしている。ビルのエレベータで、たまたま出くわした人たちに、内心で何を思われているか分からないと、不安や緊張感を感じたことはない。

 無言の配慮は周囲に伝わることを期待しているものではなく、むしろ自己満足であろう。イヤホーンをして一心にスマホを見つめている人は、周囲と断裂した個人の世界に没頭しているのが普通で、「他人が集まった密室」という場の緊張感を和らげようと配慮していることなど稀で、強いていうならば、孤独に逃げようとしているのであろう。

 それは兎も角、無言の配慮が周囲へ伝わるかどうかを気にするよりも、もっと気軽に他人に声をかけられる社会になれば良いということには賛成である。欧米人が知らない人と目があった時に、にっこりと微笑むのは自分はあなたの敵ではないことを示すサインだと誰かに聞いたが、目を伏せたり素知らぬ顔をして関係を断つ姿勢を示すより、和やかで平和的であり、お互いに気持ちが良いのではなかろうか。

 なおついでに言えば、最近発見したのだが、アジア人でも、ヒジャブを被ったマレイシア系統の女性?は、大抵目があったら、にっこり微笑み返すようである。日本人同士でも意識してにっこり微笑んだり、話しかけてみる文化を育てていってはどうであろうか。

空一面から火が降ってくる

 こんなことはもう二度と見れないし、見たくない。もう二度とあってはならないことである。何のことかと言えば、戦争中に起きたアメリカ軍のB29爆撃機による1945年3月13日夜の大阪大空襲である。

 戦後もう75年も経ってしまい、今や戦争体験者も少数となり、世情は再び次第に戦前の空気に似てきてもいる。あれほど「過ちは二度と繰り返しません」と皆が誓ったのに、それすら忘れられて、再び陰鬱なファシズムの影が忍び寄りつつあるので、ここらで私の戦争体験談を書いておきたい。何かの参考にでもなれば幸いである。

 当時、私は大阪の天王寺駅の近くに住んでいた。戦局は日々に悪化しつつあり、アメリカ軍は南方の太平洋の島々から、フイリッピンを占領し、次いでは台湾、沖縄と南方からじわじわと日本列島を目指して北上しようとしていた。一方、サイパン島を占領してからは、日本本土を直接爆撃することが可能となったので、日本の大都市を空襲で破壊して戦力を潰すとともに、日本人の戦意を奪おうとしていた。

 その頃の日本は、大都会でも、殆どが木造の家屋で、それが密集していたので、火事には弱く、実際にも、度々火事を繰り返していた。そこで空襲対策として、貯水槽を掘ったり、家屋の間引きをしたり、防火演習をしたりもしていたが、これらの対策はいずれも何処か1ヶ所ぐらいの火事に対応するようなもので、多数の爆撃機による空襲のようなな同時多発の大規模な火災に対応出来るような対策は何もなかった。

 そのような事情を十分知った上で、アメリカ軍の日本本土の空襲は計画されたもので、一年でも一番乾燥していて燃えやすい春先を狙って、爆弾よりも軽くて大量に運べる焼夷弾を用いた焦土作戦が行われた。それに対して、当時は最早、日本の戦力は殆ど無に等しい状態で、アメリカ軍のなすがままに、日本の大都会が次々に焼き払われて行くのを傍観するよりない有様であった。

 一連の大空襲の始まりは、先ずはは3月8日の東京大空襲であった。次いで一日置いて10日が名古屋、更に13日が大阪、15日が神戸という順に日本の大都市が次から次へと一晩毎に焼け野が原になっていったのであった。

 従って今夜ぐらい、今度は大阪だろうという予測は立てられていた。案の定、夜になると「潮岬上空を敵大編隊が北上中」という警報があり、空襲警報のサイレンがなり、やがて間も無く、敵編隊が上空に現れ空襲が始まった。

 その時の焼夷弾による空襲がどのようなものであったか。現在の戦争を知らない世代の人たちにとっては、想像も出来ないことであろう。爆撃機から次々と落とされた焼夷弾の束が空中でバラバラになり、燃えながら空から降ってくるのである。それはあちこちに降ってくるというようなものでなく、空中見渡す限り、空一面から燃えた火が降ってくるのである。見渡す限り空一面に花火が上がっているようなものとでも言えようか。

 あんな景色はもう二度と見れない。シュルシュルシュルという音も聞こえた。空から一斉に火が降って来る。しかし、こちらはどうすることも出来ない。ただ呆然と見上げているだけである。そのうちに、塀の向うの隣家に火が落ちて燃え始めた。騒がしい声が聞こえていたが、そのうちに幸い消えたという声が聞こえて一瞬安心した。しかし、ここも後に隣からの類焼で燃えてしまった。

 と思えば、今度は裏のお寺の大きな伽藍に火がついて燃え出した。しかし、どうすることも出来ない。バケツで消せるような火事ではないし、塀の向こうにかなりの庭があってその向こうなので近づくことも出来ず、ただ見ているしかない。そのうちに屋根まで燃え広がり、真っ赤な炎の中で大黒柱が倒れ、お寺がすっかり燃え落ちるまで、ただ呆然と見ているだけであった。

 焼夷弾は幸い我が家には落ちなかったが、そのうちに数軒離れた南の家も燃え出し、駆け付けて来た警防団の人が「火に囲まれるから逃げて下さい」と言うので、毛布だけ被って、皆で家を出、すぐ近くの天王寺美術館の慶沢園の垣根をよじ登り、庭を通って美術館の地下へ避難した。

 美術館は少し高い所にあるので、周囲の見晴らしが効く。しばらく落ち着いてから、恐るおそる周囲を眺めてみると、四方が一面に燃えて、空まで赤くなっている。公園の北の外れの松屋町筋に近い所に、武道館だったかの大きな建物があったが、そこも燃えだし、燃え尽きるまで見ていた。四方全てが火の海で、まるで地獄絵を見ているようであった。

 しかし、我々は幸い美術館に逃げて、町の焼け落ちていく様を遠望していただけであったが、全面的な火災の中に巻き込まれていった人はどんなに苦労されたことであろうか。多くの人が焼け死に、家を失い、家族もバラバラに逃げ惑ったことであろう。それこそこの世の地獄だったに違いない。船場に住んでいた私に友人も焼け死んだ。その夜は一睡もしないで朝を迎えた。見渡す限り殆どの街が燃え尽きて、火は治まって来ていた。

 明るくなってきたので、家に帰ることにした。我が家ももう焼けてないのではと思って、そっと帰ってみると、なんと我が家は残っているではないか。ところが安堵したのも束の間、裏へ回ってみて驚いた。我が家を境として、そこから先は見渡す限りの焼け野が原である。全てがなくなってしまっている。

 天王寺五重塔もないし、唯一、上六の近鉄百貨店の鉄筋の建物だけが見える。我が家から上六までは天王寺西門前から椎寺町、上九を経て行くので、そこそこ距離があると思っていたが、それがすぐそこに見えるのである。あとは一面の焼け野で何もない。見渡す限りの褐色の焼け野が原の中に、あちこち焼け焦げた土蔵だけが寂しそうに残り、その間に、竃の残り火の様な赤い火がちょろちょろと燃えているのが見られた。

 南を見ると、8階建ての近鉄(当時は大鉄)百貨店の建物が見えたが、すっかり燃え尽くしたようで、焼けたビルのいくつも並んだ真黒な窓から、黒い焼けた煤が斜め上に走っていた。一晩で周りの姿がすっかり変わってしまい、その一面の焼け野が原の中で、ただ呆然とするよりなかった。神国である大日本帝国の聖戦を信じ、忠君愛国、滅私奉公、天皇陛下の御為には命を捨ててでもと頭から信じていた私であったが、いくら天佑神助があってもこんなことで、まだ戦争に勝てるのであろうかと思わざるを得なかった。

 最近の新聞で、空襲を経験した人が今でも花火が嫌いと言っている記事があったが、私も戦後長らく花火を近くで見ると、空襲を思い出すので、出来るだけ避けていた。まともに花火が観れるようになったのは、もう歳をとってからのことである。新聞記事にあった人も、花火大会に招待されたが、怖いのでずっと目を閉じていたら、「花火で寝ている人を初めて見た」と言われたそうである。

 これは決して避けられない天災ではない、人災である。中国などへの侵略戦争から始まった15年戦争の結末の一齣だったのである。こんな経験はやがて死に行く我々だけの記憶として、封印したいものである。これから生きていく人たちは、皆で努力して、何としてでも、こんな経験だけはしないで済むようにして欲しいものだとつくづく思う。

 

今浦島

 電車で居眠りをしていて目が覚めた時に、周囲を眺めて、ふと思った。同じ電車の中の風景なのに、昔と比べると、すっかり様子が変わってしまったものだなあと。

 第一に乗っている人の姿がすっかり変わってしまっている。最近の日本人は皆背が高くなった。昔は背が高いと言えば、ガイジンさんと決まっていた。日本人で電車のドアに頭が使えるような人は滅多にお目にかからなかったものであった。

 私は身長160cm足らずだが、我々の世代では、小さい方には違いないが、決して極端に小さい訳ではなかった。同じくらいの背丈の人は幾らでもいて、ある時、友人と何人か一緒に並んで歩いているのを見た女房が、あなたの頃の人は皆このぐらいだったのねと言ったことがあった。

 ところが、最近はもうどこへ行っても、背の高い人ばかりである。ひところは「近頃の若者は背が高くなったな」などと言っていたが、今や戦後生まれがもう後期高齢者になる時代。殆どの日本人の背が高くなったと言っても良さそうである。女性でも電車のドアに頭が使えるような人さえ多くなった。

 もし戦争で死んだ人がひょっこり生き返ったら、最早ここが日本と思えないかも知れない。今でもテレビなどで、江戸時代の時代劇などやっているが、本物の江戸時代とはもう全く違った世界が演じられているのではなかろうか。昔の日本人は痩せて小柄だが、引き締まった感じの体格だっただけでなく、顔もお多福ように、目が細く頬骨が張り出し、鼻ぺちゃなのが普通であった。体形だけでなく、服装も違えば、行動様式や文化もすっかり今とは違っていた筈である。

 江戸時代まで戻らなくても、私の若かった戦中戦後の頃と比べてみても、今は全くと言っても良いほど、違った世界になってしまっている。日本の都会の光景や人々の姿もすっかり変わっている。1960年頃でさえ、まだ日本には超高層ビルなどなかったので、初めてニューヨークの摩天楼を眺めた時には、絵葉書と一緒だなと感激したものだし、私の子供の頃には、自宅で冷暖房や、蛇口からお湯が出るなど考えられもしなかった。夏は裸で団扇で涼むぐらい、冬になれば肩が凝るほど厚着をして、火鉢と炬燵にしがみついているのが普通であった。

 自家用車などないから、よく歩き、よく自転車で遠くまで出かけた。引越しなどの時には、牛車が来て、大きな荷物を鉄道の駅まで運び、そこで貨物列車に積み替えたものであった。大都会では市電と市バスが主な交通手段であった。隣の家に人力車が止まったら、病人が出たサインであった。医者がよく往診に人力車を使っていたからであった。大阪の近郊の箕面でも、未だ汽車に乗ったことがないという友人もいた。

 服装も子供や青年は一様に、黒の詰襟の学生服制服で、夏服、冬服は6月と10月の初めに一斉に着替えられたが、小学生の袖口は乾いた鼻汁でテカテカに光っていることが多かった。大人は労働者と会社員の身分差が服装の上でもはっきりしていた。会社員は決まって背広のネクタイ姿、労働者は制服か仕事着か。皆一様で、今のように背広姿にズック靴でリュックを背負ったサラリーマンなどありえなかった。

 また、日常生活の場では、上と下、屋内屋外の違いがはっきりしており、家でなくても建物へ入れば、靴を脱ぐのが当然で、上履きというものがあった。電車の床に直接物を置いたり、ましてや床に座り込むなど考えられなかった。駅の周りなどで屯ろして座り込む高校生なども、昔は尻を下ろさず、蹲踞姿が普通であった。

 食べ物は必ず一定の場所で座って食べるもので、映画「ローマの休日」でオードリーヘップバーンが歩きながらアイスクリームを食べる場面にびっくりさせられたものであった。当時の日本では「行儀が悪い、親の顔が見たい」と言われたぐらいの作法であった。ましてや、電車の中で食べたり、飲んだりなどは全くのご法度であった。

 化粧などもこっそりするもので、電車の中でなど、公衆の面前でするのは娼婦ぐらいと考えられていた。米国などでもそう考えられていたようで、車内で化粧をしていて、隣に座っていた外国人に娼婦と間違われて声をかけられたという話を聞いたこともある。

 そんな世界しか知らない昔の人間が突然今の街へ出て、電車に乗ったりするとどうであろうか。それこそ「今浦島」である。先ずは、皆が一斉にスマホ見ている姿に驚くことであろう。一体皆何をしているのか不思議でたまらないであろうし、背の高い太った人ばかりに囲まれて圧倒されてしまうのではなかろうか。今はやりのカタカナ略語ばかり聞かされれば、言葉さえ通じないかも知れない。

 電車の中でついうとうとして、朧げなな昔の夢を見ていて、ふと目が覚めて、急に現実に引き戻されれば、1世紀にも足らないうちに、世の中の姿というのはこんなにも変わるものかと改めて気が付かされたのであった。