96歳の難病

 私はこの7月が来れば、もう満年齢で96歳になる。以前に仲の良かった友人達はもう皆先に逝ってしまって誰も残っていない。五人兄弟だったが、今では白寿を迎えた姉と私だけになってしまい、姉は施設で死にかけているといっても良い状態である。父親が94歳で死んで長生きだったと思っていたが、もうその歳も超えてしまった。

 最近は百歳を超える老人も多くなったが、96歳といえばもういつ死んでも老衰とされておかしくない年齢である。これまで87歳で軽い心筋梗塞を起こした他は、これといった病気もせずに、普通に暮らせてこれた方がおかしいと言われても反論できない様な年齢である。

 そんなところに突然血小板減少性紫斑病が起こり、病院に入院させられた。自分では紫斑や点状出血斑などはあるものの、年並みの体の衰えは当然だが、普通に生活出来ているので、あまり問題にしたくなかったが、検査を受けた医師が血小板数が2千しかないことに驚いて、病院を紹介し、即入院ということになったのであった。

 病名は特発性(免疫性)血小板減少性紫斑病という指定難病であり、早速ガンマーグロブリンの大量点滴注射を一回4時間もかけて5日間続け、その後、最近になって使われる様になった、骨髄での血液細胞の増殖を刺激するという、一錠が5万円もする薬をのむ予定が組まれた。初めのうちは経過を見るために入院を続けることになっていた。

 ところで考えさせられた。もっと若い時にこの病気にかかっていたとしたら、いくら高額な薬で副作用の危険を冒しても、最善と思われる治療に賭けて見るべきであろうが。最早何時何で死んでも老衰と言って片付けられても良い年齢の老人が、残り少ない日時を医療のためだけに貴重な生活を犠牲にしても良いのであろうかと気になった。

 死なない人間などいない。平均寿命ももう過ぎ、残り少ない命の老人が、生活を犠牲にして治療に専念しても良いものだろうか。治療が功を奏したとしても、たちまち天命が来て命を落としては、何のための治療だったのかということになるであろう。ここは普通の生活が出来ているのだからそれを続けるべきで、その範囲での治療行為に限るべきではなかろうか。

 ここはエビデンス・ベイスド・メディシン(EBM)よりもナラティブ・ベイスド・メディシン(NBM)を優先さすべきだろうと考えて、医師と相談して、後の薬を止めて、止血剤だけもらって退院し、普通生活に戻った。血小板数が増えるかどうか様子を見なければわからないが、血小板がそのままで、結果が命取りになったとしても、それが天命であろうから後悔することにはならない。

 残された人生の短い時間を少しでも意義あるものにすることの方が大切だと思わざるを得ない。家庭生活を続け、桜を愛で、アメリカから来た孫達の顔を見、ずっと続けてきたクロッキーをも描き、快適な生活を少しでも味わいながら、血小板減少がどうなっていくのか運を天に任せて、余命を楽しもうと思っている。

サプリメント

 今日の様に社会のあらゆる分野の隅々まで資本主義が行き渡り切ってしまうと、その中で金儲けをして生きていくには、最早、衣食住といった人々の普通の基本的な需要に応えるだけでは、もうどこを見渡しても飽和し切ってしまっており、どこかに間隙を見つけて需要を掘り起こし、新たな需要を作って行かねば商売にならなくなっている。

 そんな間隙として入り込みやすいのは、人々がなくても良いが、あったら便利かな思うようなところであろう。実際アマゾンなどの広告を見ているとそんなものばかりである。生活周辺の電気製品やレジャー用品など、ありとあらゆる、どうでも良い様な物品の広告がぎっしり並んでいて、競争の激しさが分かる。

 そんな中でも、より多くの人たちの関心をを惹きつける分野となると、人の弱みに漬け込む商売である。中でも人の健康に関するものがよい。誰しも完全無欠な体を持っている者はいない。それに、誰しも年をとるし、どこかに弱みを持っている。それに社会的にいろいろなストレスにもさらされるので、誰しもどこかに不安を抱えている。それに高齢化の時代であり、不安の時代でもある。

 そんなことで最近盛んになってきた大きな市場は健康関連の分野である。運動器具から運動着、運動靴、健康増進具、健康補助具、野外用品など健康関連物質の販売、スポーツ施設やジム、レジャー用品なども大きな市場であるが、もっと直接身体に働く所謂サプリメントの類から化粧用品の類なども、人の弱みに漬け込むわけなので、より大きなチャンスを与えてくれることになる。

 サプリメントと言っても幅が広い。医用薬品に近いものから化粧品や食品に近いものまである。その内容は豊富で、法令上の区別ばかりでなく、種々の分類や呼称がある。医療用医薬品以外の一般人が薬局で普通に買える市販薬をはじめとして、保健薬、医薬部外品などと言われるものから、健康機能食品、特定保健用食品、機能性表示食品、栄養機能食品、健康増進剤、健康飲料、栄養補助食品、栄養強化食品、健康補助食品、保健用食品など機能の違いも曖昧な、名称もまちまちで、薬品に近いものから食品や化粧品に近いものまで種々雑多なものがある。

 こう言ったものが売られるのは良いが、一つ一つの掲げる効用は医薬品と違って弱く、副作用も少ないであろうが、製造過程で医用薬品ほど厳密には効果も副作用も検討されていない。むしろ心理的効果の方が大きい様なものばかりであるが、その結果が最近問題になっている小林製薬の紅麹によるコレステロール低下を狙った健康補助薬である。

 それについてはここでは触れないが、こう沢山の種類のものが出揃うと、あれもこれもと併用する人の多くなることも充分考えられる。一つ一つには問題がなくとも、違った種類のものを多くの服用するとなると、その併用による思わぬ危険性も考慮しなければならなくなるのではなかろうか。

 一つ一つについては責任を持てても、多くの出所からの多くの品物の併用については、すべてのものが同一の人体に入るのだから、当然全体としての作用、副作用をも考慮に入れなければならないが、それについては誰も責任を負わないことになる。

 サプリメントだからといって、良さそうなものをあれもこれもと併用している人も多い。現に私の友人を介して知っているある男性がサプリメントを20〜30種類も常用していると聞いて驚かされたことがあるが、広告に乗せられれば、あれもこれも良さそうで、いくらでも併用したくなる可能性も充分考えられる。

 サプリメントが人の弱みに漬け込む性質のものであるだけに、全体としての人体への影響を考える責任を誰かが取るべきではなかろうか。

 

歳を取れば諦めが大事

 歳を取れば誰しも体力が弱り、それまで出来ていたことが次第に出来なくなるのが悲しい。

ずっと続けてきた毎月の箕面の滝までの散策も、もう今年になってからは出来なくなったし、散歩の行動範囲も、以前は池田から隣の石橋や川西まで歩いて行っていたのに、もう今では電車に乗らねば行けなくなってしまった。

 梅田界隈など、以前はよくあちこち歩き回ったものだが、もう電車に乗って梅田へ出かけることさえ億劫になってしまった。免疫性血小板減少紫斑病にかかってしまってからは、危険を避けるために遠出は遠慮した方が良いことも関係して、どうしても行動範囲が限られてしまうことにもなった。

 足だけではない。体全体が疲れやすく、炬燵にでも入れば、出るのに何度「どっこいしょ」と掛け声をかけないと抜け出せないことか。家の階段でも、14段の曲がり階段を2階まで上がるだけで足が疲れてやれやれということになる。

 五感も衰え、以前にはよく見えた目も、今では片目で見ているようなもので、それもピントが甘くなり、しばしば読み間違いをする。漢字など譬へば、「焦る」とあるので、何をそんなに焦るのかと思ったら、「集る」だったりするし、耳も聞こえ難いので、会話の輪に入り難い。「梅」が好きだというのをてっきり「海」が好きだと聞き違えたりする。

 匂いなど更に感じなくなり、外から帰って来た娘が「今日はカレーなの」と言うのを聞いても、食卓にいる私にはカレーの匂いなどしない。鰻屋の前を通っても鰻の匂いがしないし、花の香りさえ分からなくなったのは悲しい。

 自分の両脚は他人に見せられないが、太腿の付け根から足の先まで、びっしりと小さな出血斑の後がいつまでも残っている。自分の体や能力にケチをつければキリがない。病院では特発性血小板減少性紫斑病と診断されている。

 歳を取らない人はいないし、誰しも必ずやがては死んでいくのである。96年もの長い間、良くも生きて来たかものである。もう友人達も、もう皆既に先に逝ってしまっている。父の死んだ歳をも超えた。自分の番が回ってきても当然である。もう長くは生きていないであろう。

 そう考えると体の衰えも当然のことであろうし、恐れることはなく、諦めるべきで、これまで自由に老後の生活を楽しませてもらったことに感謝し、むしろ現状を楽しみ、いつかは必ずやってくる死を待つべきなのであろう。

 

 

コンパクト・シティ

 私はもう昭和の時代から池田市大阪府)に住んでいる。両親が亡くなってから、その趾地で建て直した家だが、池田駅から300〜400米ぐらいの近くである。

 池田市は呉服、綾羽の機織り伝説以来の古い歴史を持った町で、城跡もあり、その後の歴史も豊かで、山も川も古墳もあり、古い街並みも揃った、人口約10万人の街であるが、東は箕面市、西は兵庫県川西市に挟まれ領域は比較的狭い。

 まだ現役で働いている頃には、朝出かけて夜帰るような生活が続いていたので、地元の事情には薄かったが、歳を取り退職して家にいることが多くなり、行動範囲も狭くなって来ると、自然に地元の様子が肌身に感じられるようになって来るものである。

 買い物も日用品や食事などをはじめ、近くで用立てることが多くなるし、散歩のコースも自然と近くのあちこちということになる。それまで知らなかった街の様子にも次第に詳しくなって来る。 

 そうなってきて知ったことは、池田市というのは阪急池田駅周辺に、生活に必要なあらゆるものが備わっている便利な街だなということである。ここだけで、日常生活上必要な物や事がほとんど全て賄えるのではないかと思える。

 体の弱った老人には持ってこいの場所と言えるかも知れない。池田駅前には銀行なら三菱UFJ、三井住友、すぐ近くにはみずほもあるし、池田泉州もある。スーパーも駅に直結してダイエーとオアシスがあるが、来年には関西スーパーも出来るらしい。

 市役所も商工会議所も近いし、公民館も駅にほぼ繋がっている。郵便局や税務署も駅から2〜3分、ドラッグストアやコンビニも何軒もあるし、レストランや喫茶店には事欠かない。画廊まで2軒も備わっている。

 例えば、A銀行で年金を引き出し、B銀行で送金し、市役所へ行って必要な手続きをし、税務署で確定申告をし、郵便局から小包を送り、ついでにコンビニでコピーを取って、帰途、スーパーで買い物をして、おまけにドラッグストアでトイレットペーパーを買ってと思って出かけるとしても、あちこち小廻りするだけで、老いた足でも疲れるほど歩き回らなくても、駅周辺だけで全ての用事をこなすことが出来るのが有り難い。

 女房がコンパクトシティだと言い出したが、正にその通りである。老人にはもってこいの街ではなかろうか。そのためでもあるまいが、昼間の池田は、どこへ行っても老人ばかりである。杖老人にシルバーカーが続き、その後が若者に支えれて歩く老人、腰が曲がっているのに買い物袋を両手にぶら下げて行く老婆が続く。

 こうした年寄りにとっては、本当にありがたいコンパクトシティである。

「台湾有事」と言ってなぜ軍備を拡大し戦う準備をしなければならないのか。

 最近の世界の情勢を見ていると、ウクライナの戦争や、ガザでのホロコーストが契機なのか、日本でも「台湾有事」だとか、そのための沖縄の軍事要塞化だとか、敵基地先制攻撃など再び戦前のような空気が広まりつつある。

 しかし、アジアでも実際に戦争を起こさなければならないような矛盾が高まっているのであろうか。どうもわざわざ作られた敵対的態勢に組み込まれている感じがしてならない。アメリカの一極支配が陰り、中国をはじめとするBRICSやアフリカの台頭で世界のバランスが変化し始めてきていることが背景にあることは押さえておかなければならないが、そうかといって今直ちに戦争をしなければならないような切羽詰まった矛盾は考えにくい。

 「台湾有事」がしきりに唱えられるが、日本もアメリカも台湾は中国の一部だということを今も認めているのである。従って、最悪なことを考えて中国が台湾に攻め込んだとしても、日本が危険を犯してまで、それに介入して戦わねばならない必然性は何もない。むしろ平和的な解決を図るべく外交的な努力をするべきであろう。

 中国との間には台湾に近い尖閣諸島の領有権争いがあるが、これは小さな国境問題で、例え話し合いが出来なくとも、そのために国をあげて戦争するようなことは考えられない。現在、中国が日本に攻めてくるような両国間の矛盾もないし、政治的、経済的に日本が中国から圧力を受けていることもない。中国は日本が古くから多くのことを学んできた国でもあるだけでなく、現在も経済的にも最大の貿易相手国でもある。争うより、友好関係を固めた方が日本の将来の発展のためにどれだけ良いかは誰が見ても分かる。

 そんな国が発展してきたからと言って、アメリカが政治的経済的にその発展を抑えようとして軍事的に圧力をかけようとしているのに協力しなければならない必然性は何もない、日本にとって得られるものも何もない。

 日本がアメリカの属国なので、アメリカの圧力に屈してそれに協力しなければならないことは理解出来るが、いざ実際に戦争にでもなった時のことを考えると、日本が最前線に押し出され大きなダメージを受けても、アメリカは不利とあらばいつでも逃げることが出来る立場にあることを考えておくべきであるろう。

 ウクライナの戦争と同様、アメリカは大量の武器を売って大儲けするかも知れないが、日本はその犠牲になって取り返しのつかないダメージを受けることになるであろう。

 日本が中国と戦わなければならない必然性は全くない。アメリカに反対してでも、何処かで今の路線を変えねば、再び悲惨な目に遭うことになるであろうことを知っておくべきであろう。

地域の画廊巡り

 近頃はどこの市や町にも小さなギャラリーや画廊があり、地域のアーティストや美術愛好家たちの発表の場所になったり、友人知人の交流の場所になったりしている。

 私の住んでいる池田市にも、小林一三記念館・逸翁美術館や、カップヌードルミュジーアム池田、市立歴史民俗資料館など比較的有名なものの他、池田市の中央公民館、市民ギャラリーいけだ、ギャルリVEGAなどが池田駅やその周辺にある。

 また隣駅の石橋阪大前駅の近くには画廊ぶらんしゅやGuliGUliの画廊、隣町の川西には駅にギャラリかわにし、駅のすぐ近くには画廊シャノアールというのもある。以前は散歩や用事のついでに、気軽に歩いて訪れていたものであった。

 更には、近隣の伊丹や豊中、少し足を伸ばせば宝塚にも、いくつも美術館やギャラリーがあり、良さそうな催し物があればなるべく訪れるようにしてきた。

 歳をとって足も衰えてくると、もう遠方の美術館などへ行くのは諦めなければならないし、京都や大阪、神戸などの大きな美術館にも、行き帰りの行程を考えると、どうしても足が遠のき勝ちとなる。

 そんな時に、近くのギャラリーは大きな助けとなる。池田駅の周辺のギャラリーには散歩の時にでもいつでも立ち寄れるし、月に一度はギャルリVEGAでクロッキーの会にも行っている。書道や手芸その他の展示のこともあるが、いろいろな絵画の同好会や個展などには、時に興味深い作品を見ることが出来るのも楽しみである。知人の作品が並ぶような時には欠かさず赴いている。

 ただ、GuliGUliの画廊は足場が悪く、レストランの傾斜した庭の庭石を辿って行かねばならないこともあって、レストランを利用した時に一度行った以外には、これまで訪れたことがなかった。ところが先日女房の90歳の誕生日祝いで訪れた時、丁度その日から新しい展示が始まるというので食後にギャラリーも覗いてみることにした。

 松田彰という人の個展であったが、この人は東日本大震災の直後から、思い立って毎日欠かさず18cm四方の紙に白黒のアブストラクトの絵を描き始め、これまでに全部で4千枚以上になるそうだが、それを床や壁に並べて展示されていた。並べてみると、それがまた全体として白黒の面白い表現になっていて思わず引き込まれた。

 バリ島に魅せられて、近年は始終バリ島へ行ってられるそうだが、会話も弾み、「一緒にバリ島へ行きましょうや」という話にもなった。バリ島は同じインドネシアでも、イスラムと違い、ヒンズーの影響が強く、また違った景色や風習があり、話しているうちに興味をそそられ、以前にった旅の印象が蘇った。彼の曰くに「関空へ着いた途端に、同質性の日本人ばかりを見ることになり、がっかりする」と言っていたが、よく分かるような気がした。

 また、階下の部屋では、女性の作家がマダガスカルのラフィアという木の繊維で、日本の蓑に似たものを作っている展示もあったが珍しいので興味が湧いた。

 さらにこの日は、Guli Gulからの帰途、石橋で画廊ぶらんしゅにも寄ってみた。ここでは黒田峰夫という人の彫刻展をやっていた。手足のないルコルビジェに似た細長い人物の彫刻展だったが、天井の高いこの画廊にもぴったりの大きさの展示でびっくりさせられたが、以前にもここで展示をしたことのある作家で、それに合わせて上での展示だったようである。

 ローカルな画廊巡りも、当たり外れは大きいが、時に結構面白い作品や作家に会えるので楽しいものである。

ある蕎麦屋さん

 阪急の池田駅のすぐ近くに小さな蕎麦屋さんがあることは以前から知っていた。駅前から市役所の行くショートカットになる道筋なので、時々その前を通るものの、何処にでもあるような場末の蕎麦屋だと思って、いつも通り過ぎていた。

 ところが昨年ニューヨークに住んでいる上の娘が帰って来た時、亭主と一緒に出掛けて帰ってから、どう見てもその蕎麦屋で蕎麦を食べて来たようで、美味しかったと言っていたが、あんな店でそうかなあと思っただけで忘れてしまっていた。

 それが今度はロスに住んでいた娘が帰ってきており、それをたよりに一人の孫が来たので、桜を見に五月丘公園に行ったが、時間的にもう午後1時半も過ぎてしまっていたので、孫の希望もあり帰途その店に立ち寄った。

 入り口は裏びれた場末の蕎麦屋の感じだが、入って見ると中は客で一杯、席は2階しかないという。どしたものかと思っていると、入り口に近いカウンターに座って、まさに食べ始めようとしていた女性が私の歩行車を見て、自分の親も足が悪いのだからと言って、親切にも席を譲ってくれたので、感謝して四人揃ってカウンター席に並ぶことが出来た。

 店は小さいが、我々が入った後も客は次から次とやって来て、いつも満席のようである。最近はSNSを見てくる人が多いので、そんな関係かも知れない。カウンターの中では、調理人が一人で切り盛りし、従業員の女性三人が調理場や客周りのことを務め、その他に会計も任されているう若い男性が一人いた。

 昼の定食のようなものを注文したが、まずは前菜に何か知らない美味しい和物が出て、次いでお蕎麦は4種類、塩をかけて食べる蕎麦に続いて、桜の花を練り込んだ真白な蕎麦とせいろ蕎麦.、最後が太い噛み出のある蕎麦であった。最後に、これも少し変わったアイスクリームのデザートまでついていた。変わっているだけでなく、なかな美味しく、上の娘の言った意味がわかり、この店を見直した。

 料理人の主人は若い時に、何処かで食べた蕎麦がおいしく、それに惚れてあちこちで修行し、独立した人のようで、孫のカタコト日本語なども挟み、会話も弾んだ。すぐ近くに住みながらこれまで全く無視していたが、上の娘の来訪がきっかけとなり、今回の下の娘と二人目の孫の出現で、思わぬ発見があったことになる。

 もうすぐ入れ替わりで、他の孫たちもやってくるので、またこの店にも寄ってみようと思っている。