舅姑夫の三人介護の村一番の嫁の最期

 敦賀で舅、姑、夫の三人を介護していた71歳の嫁が三人の首を絞めて殺したとして逮捕されたというニュースが新聞に載っていた。両親はともに90代、夫も数年前に脳梗塞を患い、足が不自由だったようである。

 田園地帯の一軒家で、夫は建設業を営み、本人は夫を会社まで運び、自分も仕事をし、昼前には家に帰り、食事や身の回りの世話など、3人の介護をしていたそうである。しかも、義父は流動食で、排泄の世話も本人がしていたという。要支援1と2だった由。 義母は週一回ぐらいデイサービスに通っていたが、自治体などへの支援の相談はなかった。

  娘二人が家を出てからは、四人の暮らしが10年以上続いていた。夫婦仲も良かったそうで、地元の住民らによると、義父、義母ともに「村一番の嫁」と褒めていたと言われる。「あんな優しい人はいない。愚痴一つ言ったこともない」と言われるぐらいであったが、最近は世話するのがしんどいとこぼすようになっていたとも。

 こういう田舎の古くから続く家庭では、嫁や息子が両親の面倒を見るものだという意識がまだ強く、多重介護、老老介護で大変であっても、嫁の立場からは施設に入れたいとは言えない。

 こういう条件を考えるなら、この嫁は犯人というより”犠牲者”と言わねばならないのではなかろうか。過疎化の上に、高齢化の進む田舎では、都会以上に福祉などの社会的支援は手薄なだけでなく、人々は都会以上に旧来の陋習にとらわれざるを得ず、忠実に生きようとした結果が、このような悲劇を引き起こしたのではなかろうかと考えざるを得ない。

 この事件は決して偶然起こったものではなく、社会の構造の歪みの綻びであり、同じような事件が他に起きても決して不思議ではない。人間はどんの試練にも耐えられるほど強くはない。犯罪は処罰されるべきだが、人間の弱さを補うのが社会であり。国であるのではなかろうか。

 最近の朝日歌壇にも下記のような歌があった。

「障害をもつ娘との日々疲れ果て我が身も病んでそれでも我が娘」

 このような悲劇の記事に心を動かされて、同じ新聞に載っている、安倍首相の「桜を見る会」の権力を私物化しての税金を使った後援会や反社会的な人物までの招待や、それに対する追及への傲慢とも言える逃げの対応を見ると、思わず強い憤りが湧いてくるのを抑えることが出来ない。