杖仲間

 最近街を歩いていても、如何に杖を持っている人が多いことか。家の近くでも、梅田あたりの繁華街へ出ても杖を使って歩いている人に必ず出会う。

 私も歳をとって転ぶことが多くなり、転ばぬ先の杖と、念のために杖を持って外出する機会が増えたが、最近は脊椎間狭窄症なのか、二〜三百米も歩くと右足が痺れた痛くなり、一休みしなければならなくなって、杖仲間に加えて貰うこととなった。

 自分が杖仲間になると、杖をついた人が余計に目につくものである。昨日など、近くの通りで杖をついて歩いていると、向こうから若者に付き添われた年寄りが杖をついてトボトボとやって来る。と思ったら、今度は脇道からこれも杖をついた老人が出て来て、三人の杖つきが出くわしてびっくり。高齢社会になったものである。

 過日は、駅の近くの通路の角で向こうから来る人とぶつかりそうになって道を譲ったが、杖つき同士はお互いに相手の事が分かるからか思いやりがあり、お互いに道を譲り合い、思わずお互いに微笑んで会釈をし、気をつけて行ってくださいねと言いながら通り過ぎたのであった。

 そのようなことがあったので、道で杖をついた人に出会った時には、そちらに目をやってちょと会釈をするようにすると、向こうも必ずと言って良い程、にっこりとした笑顔が帰ってくるものである。何も言わないでも、以心伝心で、相手への思いやりが伝わるのであろうか。

 杖を持つに至った事情はそれぞれに千差万別であろうが、杖を持つ人は皆杖を持たねばならなくなった他人には言えない苦しみを秘めているものである。それが同じ杖を持った人と接すると、自然と相手の心情のどこかに響くところがあり、何か反応があると思わず同病愛哀れむような心情がくすぐられるのであろうか。

 杖を持つぐらいのことで、健全な人に自分の不自由さを訴えるわけにもいかないので、普通、誰しも黙っているが、やはり、杖を持たないでさっさと歩けるのと、杖に縋らなければならないのとでは雲泥に差があるものである。杖を持つだけでも、そう感じるぐらいだから、もっと強い肢体の不自由を持つ人たちが、どれだけ人には言えていない苦しみを抱えているかが想像される。

 自分に困ることがあれば、他人の困ることも理解しやすくなるようである。