昔と今の喫茶店

 先日、久しぶりで古くからの友人と昼食を共にし、その後、近くの駅ビルにある喫茶店で長い間話をしたりして、時間を潰した。

 昔は駅の近くの裏通りのような所に、行きつけの個人経営の小さな喫茶店があったりして、そこで人と落ち合ったり、ゆっくり話したり、一人で来て、時間の調整をしたり、ゆっくり休憩したりしたものであった。

 場合によっては、そこのマスターやマダムと顔見知りになって、話し込んだり、レコードを聴いたり、ゲームをしたりと、街の喫茶店は人によりいろいろと利用されたものであった。

 外回りの営業マンなどは、そういう所を隠れ家と決めて、そこに居れば何処からも呼び出されず、ゆっくり息抜きが出来るようにしていたこともあった。

 そういう希望を満たすかのように、大抵の喫茶店は店の装飾などにも気を使って雰囲気を出し、ゆっくり出来るように低めのテーブルとゆったり座れる椅子などのセットも用意していたものであった。

 しかし、今ではもうスマホなどの発達で、何処にいようが呼び出され、昔のような隠れ家は無くなってしまった。隠れ家どころか、ノートパソコンなどで何処ででも仕事が出来るので、喫茶店はリラックス出来る所というより、報告書などを仕上げる職場?になってしまているようでもある。

 喫茶店の方も、個人経営のような店は廃れ、スターバックスその他の大型チェーン店といった、機能的で効率の良い店ばかりになってしまった感がある。

 店の構えも不必要な装飾などはなく、事務的となり、席に座ってから係の女性が注文を聞きに来るような制度もなくなり、真ん中のカウンターへ行って自分で注文し、自分で持ち運びするように、効率的になっている。

 私たちが行ったのもそんな所であった。殆ど座る席もないぐらいに混んでいたが、壁寄りに小さな丸テーブルと椅子二つの席が空いていたのでそこへ座った。

 丁度、店の一番端にあたり、ゆっくり話をしながら店の構造や客の様子などを観察するのに最適な場所であった。

 すぐ前には8人がけの大きなテーブルがあり、すべて占拠されていた。見ると一組の仕事仲間らしい二人が並んで座り、二人ともノートパソコンを開いて何か仕事をしているようで、時々話を交わしていたが、後の6人は皆おひとりさまのようで、それぞれがパソコンやスマホを見て何かしていた。

 ノートらしいものを開いて、必死に教科書らしきものの書き写しのようなことをしている男性がいるかと思えば、学生らしい女性は教科書らしきものを開いて勉強しているようだったが、そのうちに机にもたれ込んでしばらく寝ていたようであった。

 皆一人で来ているようで、それぞれ黙って自分の仕事を片付けているようで、誰ひとり一言も喋らない。少し離れた別のテーブルに若い女性が4〜5人集まって話に花が咲いているようだったが、あとは店中押し黙っていて、話し声ひとつしない。

  最近の喫茶店は殆どの人がひとりで来て、ひとりで何かをしながら、コーヒーでも飲むように出来ているようである。以前に書いたことがあるが、名古屋のその店などは、大きなテーブルの真ん中に衝立が端から端まであり、周囲から邪魔されないような個人的な空間が確保されており、一見、喫茶店というより図書館といった方が相応しいような雰囲気であった。

 時間が経つとともに、徐々に人の入れ替わりが起こっていたが、見ていると、入って来る人も殆どがひとりである。それらの人たちは入ってくると、先ずは席を確保し、そこに自分の荷物を置いて、カウンターに行って注文するようである。

 日本は安全な国だと言われるが、こんな光景を見ていると本当の良い国だなと思う。知らない人ばかりの所に入って来て、空いた席を見つけて荷物を置き、そのまま直接視野も届かないカウンターに注文に行くのである。

 外国では考えられない行為である。外した席に残された荷物など、後から入ってきた人が黙って持っていても、誰も気がつかないのではないだろうか。ところが日本ではそれが当たり前で、誰しも心配しているような気配さえ見えない。

 皆ひとりで来て、ひとりで注文し、品物を自分で運び、黙って飲んで、ひとりで仕事をし、済んだら言われなくても、自分の飲んだものやトレイを規定の場所にしっかり片付けて店を出て行く。よく躾けられたものである。それを守らない人もいないし、文句を言う人もいない。

 この間ユーチューブで見たところだが、中国のスターバックスではこうは行かないようである。机の上に足を乗せていた女性に他の客が注意したところ、女性が切れて大騒ぎになった事件があったようだが、こちらではそんな光景とは、それこそ天と地ほどの違いである。

 しかし、それを見ているうちにふと思った。何か日本の今の社会を象徴しているようで、空恐ろしい気さえしてきた。皆が羊のようにおとなしい。特段、強い命令や要請がなくとも、決められたことは黙ってその通りにこなしてくれる。これほど為政者にとって有難いことはないのではなかろうか。

 日本では昔からムラ社会の伝統があり、村の掟は言われなくても守り、いつも右を見、左を見て忖度し、周囲に同調して行動し、世間のやり方に反対するようなことをしないと言われている。この喫茶店における行動なども、ひょっとしたらその延長線上にあるのかも知れないという疑問であった。

 ついこの間の関東地方を襲った台風の後、運休の後の朝の出社時、電車に乗るために 終わりのないぐらいにどこまでも続くサラリーマン長蛇の列を思い出した。それまでして、大人しく皆が会社に行かねばならないのだろうか。

 そう言えば、あの戦争による破滅も、政府から強制されたというより、社会全体が上を見て忖度し、お互いを見ても忖度しながら、皆が同調してあらぬ方向に進んで行ってしまった結果だったのではなかろうか。

 思い過ごしであれば良いが、今また社会が静かに、同じような怪しげな方向に動き始めているような気がしてならない。 そんなぼんやりした不安を感じながら、悠に2時間ぐらいはゆっくりと、友人と途切れ途切れの話をしながら、周りを観察して時を過ごしたのであった。