歌や句に見る戦争の記憶

 毎週日曜日には、朝日新聞に朝日歌壇・俳壇という欄がある。いつ頃からか、読む序でに、先の戦争に関した歌や句を書き留めるようにしている。戦後もう何十年も経っているのに、戦争の思い出はなかなか消えないものである。

 自分の過去を振り返ってみても、戦争の記憶は今だに強く残っている、というより、戦争が終わるまでとその後で、人生がはっきりと分けられる。私にとっての敗戦は、ただ負けたというより、それまでの自分の人生が精神的なものまですべて失われてしまったようなものであったし、その影響はいまだに残っている。

 例年八月になると原爆の被害や敗戦日などの影響もあって、歌壇、俳壇共に戦争に関するものが多くなるが、昨日の新聞を見ると、戦争に関するものが歌壇で9、俳壇で10も見られた。今年の正月から春にかけては一首もなかった週も時々あったのである。

 もう実際に戦争に行ったような人は略、残っておられず、殆どが家族や親戚の戦死や、子供時代の原爆、空襲などの被害の記憶などとなって来ているので、八月になると戦争を思い出す日が多いので、季節による差が一層大きくなった来ているのであろう。

 昨日の句の中にあった ”戦争を知らぬ古希にも夏来たる” という句がそれをよく物語ってくれている。74年経って世代が変わっても、戦争の被害は忘れられないものである。

 しかし、考えてみたら、これだけ皆が戦争のことを忘れられないのであれば、これは日本のことだけではなくて、他所の国でも当然同じことであろう。ましてや、日本が侵略して故郷が戦場とされた中国や、その他のアジアの国々、日本が植民地にしていた朝鮮半島の人たちは、日本以上に戦争の被害も大きかったであろうし、いつまでも忘れられないのは当然であろう。

 池の蛙に石を投げる童話にもあるように、加害者はすぐ忘れるが、被害者はいつまでも忘れられないものである。原爆についてもそうだが、被害は二度と繰り返さないようにとよく言われるが、戦争の加害者の面については次第に語られなくなってしまっている気がする。

 それどころか、安倍首相は「戦争を知らない今の若い人に二度と謝らせるようなことをしてはならない」と言っている。勿論、若い人には侵略戦争の責任はない。しかし二度と過ちを繰り返さないようにする責任はあるのである。

 そのためには過去の植民地化や侵略戦争の事実をを、無視したり偽ったりする事なく、正確に知り、相手に与えた苦しみを理解し、戦争の悲劇や苦しみを共有して、二度と繰り返さないように、ともに理解と友好を図るべきではなかろうか。

 最近の日韓の関係を見ていても、明らかに日本政府の事の進め方には、未来志向の名の下に、過去を見ないで、相手への思いやりが余りにも欠けているのではないかと言わざるを得ない。