”被害者は語り伝える加害者は語らず伝えず忘れてしまう”

 表題は朝日新聞の日曜歌壇に載っていた、伊丹市の宮川一樹さんの短歌である。8月6日になると、新聞も毎年原爆のことを載せるし、原爆の追悼式も欠かさず行われる。原爆による悲劇はいつまでも伝えていくべきである。私も直接広島の原爆のピカからドンと直後に湧き上がった原子雲を見、その後に被災地の中を歩いてきたものとして、今も原爆のことは昨日のことのように忘れられない。

 8月20日過ぎ、宇品から広島駅まで歩いたが、見渡す限りの広島は、比治山しか残っていない、すべてが焼け野が原であった。燐の焼ける匂いだと言われた異様な匂い、火傷で赤白まだらになった背中を晒して裸で寄り添って歩いて行った被災者、原爆による下血を赤痢と思ってか、「赤痢が流行っている。生水飲むな」と書いた紙切れが焼け跡に残った曲がった鉄棒にくくりつけられていた光景が一層哀れであった。

 あまりにもひどい惨状に打ちひしがれながらも、「生きている内にはきっとこの仇は取ってやると誓った」当時の軍国少年であった。

 朝日新聞天声人語に乗っていた被災者の山本宏さんも「痛みが筆舌に尽し難く、思い出すこと自体が辛い。米軍への怒りも消えません」と語って居る由。

 それからもう74年原爆については今も語り継がれ、また語り継がなければならないとされている。将来の人類の悲劇を防ぐためにも忘れてはならない悲劇である。

 しかし加害者であるアメリカではどうであろう。原爆の悲劇は理解し、被害者に同情しても、原爆投下は戦時中の正当な行為であり、アジアの侵略者であった日本の降伏を早めるのに役立ったという意見が強い。現在から将来にかけての核戦争などについての反対意見も強くても、広島や長崎の悲劇については、もはや完全に過去のこととして忘れ去られようとしている。米ソのミサイル条約も廃止され、再び核爆弾開発競争さえ始まろうとしている。

 グリム童話だったかに、少年が池の中の蛙に石を投げる話がある。蛙にとっては石を投げられることは生死にかかわる重大事件であり、仲間を殺されて、いつまでも忘れることが出来ない大災害であるが、子供は単にいたずらで石を投げただけで、そこを離れてしばらく経つと、もうすっかり忘れてしまっている。

 宮川さんの歌もそのことを歌っているのだが、戦争の記憶もその通りである。そう考えれば、これは我々日本人だけのことではない。韓国の人々の心の中の日本の植民地時代の数々の被害の記憶が、単に国家間の取り決めによって消えてしまうようなものでないことがよくわかる。ましてや、両国の取り決めでも、個人の賠償請求権は残ることを認めているのであるから、日本の経済的な報復措置が非道なことだと思われても仕方がないことも認識すべきであろう。

 中国の南京事件についても、規模や詳細が如何なものであれ、当時我々子供たちも参加して南京占領旗行列などをしたし、新聞も百人切り競争だとか、便衣隊とか、中国人の殺戮を自慢するような風潮で、復員兵たちが中国兵の虐殺などを自慢話として子供にまで話していた事実を消すわけには行かない。南京虐殺のあったことは事実である。その被害者や関係者にとっては決していつまでも忘れることのできない悲劇である。

 原子爆弾や東京や大阪の大空襲を忘れてはいけないのであれば、南京虐殺や、他の中国や韓国で日本が起こした残虐行為も、同じように中国や韓国の人たちにとって決して忘れてはならないものであることも知るべきである。