ファシズムの始まり

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 今度の参議院議員選挙の街頭演説で、札幌で街頭演説の安倍首相に対して「安倍やめろ!」と野次った男性と、増税反対と叫んだ女性が、それぞれ周囲にいた北海道警察の制服、私服の警察官数人に腕や衣服を掴まれて、端の方へ連れて行かれて動けなくされた事件が新聞に載っていたと思ったら、今度は大津市でも首相の応援演説にヤジを飛ばした男性がスーツ姿の警察官によって会場端のフェンスに押しやられる事件が起こった。

 福島では「総理、原発廃炉に賛成?反対?」という手作りの質問ボードを掲げようとした主婦が、私服刑事と自民党スタッフに取り囲まれ、ボードを没収されるということも起こっている。しかも没収されたボードが教えた覚えのない勤務先に送りつけられてきたようなことまであったようである。

 また東京では、安倍首相の街頭演説の警護に、特別事態の時にのみ出動する特殊部隊まで動員されていたそうである。

 一方、京都市では、令和維新の山本太郎候補者の街頭演説に際して、マイクを持って妨害に入った男性に対しては、合法的だから構わないとして、むしろ4〜5人の制服の警察官に守られた形になって、最後までマイクでがなり通した由である。

 これらの事例については、今はどれも写真が撮られSNSで拡散されているので、誰にも見えるし、札幌の事例については余りにも道警のやり方が常軌を逸しているので批判の声が上がったが、それに対する警察の対応も二転三転している。

 札幌の例ではヤジを飛ばした本人のSNSの投稿もあるし、安倍首相の演説を記録したSNSにも動画ではっきりと状況が映し出されている。女性の拘束されている状況もはっきりした写真がある。

 警察が中立であるべきなのは当然である。これらの事象は明らかに警察による憲法にも違反する言論抑圧である。戦前、弁士の演説を臨席した警察官が途中でやめさせた場面を思い出させられた。もうすぐ先には、そこまで言論抑圧が進むのではないのかと思われ、ゾッとさせられる。もう白水の「廊下の端に戦争が立っている」という戦前の雰囲気が近いものになってきているのを感じさせられる。

 元警察官であった人も、この行き過ぎた警察の対応にSNSに遺憾の文を書いている。「こうした警察のやり方をみると、戦前の行政執行法(明治33年)1条の予防検束「暴行、闘争その他公安を害する虞(おそれ)のある者に対する処分」が復活したような気さえする。「やりそうなやつの身柄を拘束してしまう」という特高時代の代物だ。」と書かれている。

 警察が首相府などに忖度して過剰な警備をしているのであろうが、こういう警察の反応は決して許してはならないものである。戦前の日本の歴史を振り返っても、必ずこのような傾向は時とともにエスカレートして、気がついた時にはもうどうすることも出来ない所にまで来るものである。

 戦争も独裁政治も、急に起こるものではなく、次第に積み上げられていき、やがては誰しも引き返せない所にまで人々を追い詰めるものである。たとえ今回の選挙で勝てなかったとしても、終われば、国民の声を結中して、はっきりとした反対の声をあげなければならない。