旧優生保護法による強制不妊について

 旧優生保護法による強制不妊の被害者救済法がようやく議会で成立することとなった。1948年に法が出来てから実に72年を経ている。

 戦前私の子供の頃には「貧乏人の子沢山」「こんな小さな国でこんなに多くの人を養えるはずがない」などと言われ、外国への移民が進められ、産児制限運動などもあったが、日本には堕胎罪があり、戦時中の「産めよ増やせよ」の大合唱にいつしかかき消されてしいまっていた。

 ところが戦後の混乱、食糧難の中での人口急増に伴い、産児制限や母体保護の要望が強くなり、それが戦前からの優生保護思想に結びついて、人工妊娠中絶の合法化が求められるようになった。「不良な子孫」の出生防止が公益にかなうとされ、1948年に旧優生保護法が革新会派の呼びかけで議員立法し、全会一致で成立することとなった。新憲法施行後もなお長ら

く優生保護思想は残っていたのである。

 この法律のおかげで戦後の爆発的な人口増加を抑えることには一定の効果があったが、反面では、当時の人権思想の未発達に乗じた優生学的選別による、遺伝性疾患保持者や精神・知的障害者などの強制的な妊娠中絶や不妊手術が行われることになった。

 優秀な子孫を残すために、政治的に人口調節をする必要が強調され、強制避妊も「公益上の目的」で「憲法の精神に背かない」と結論づけられていた。障害があるのに子供が出来たら本人や子供のためにならないとされ、「善意」で費用を県が負担して手術を行ったところもある。

 厚生省も57年には手術件数を増やすよう都道府県に文章を送っているし、高度成長期の60年代になっても、なお経済成長に役立つ優秀な人材を確保しようとして「遺伝素質の向上」が唱えられていた。

 70年代から80年代にかけて、漸く障害者の人権が次第に確立されて来るとともに、優生保護法への批判が高まり、この法律の誤りが明らかになってきて、96年に法律は母体保護法に改められた。更には、昨年頃から全国各地の被害者から次々と、国が責任を認め謝罪することを求めた提訴が行われるようになった。

 放置出来なくなった国は、ここへ来て漸く救済法を成立させたが、それでも、「真摯に受け止めたい」と責任を認めながらも、国家賠償請求訴訟への影響を避けるためとして、救済法での「お詫び」の主語を「われわれ」とし、違憲性には触れず、補償金も一人320万円で済まし、明確に誤りを認めて謝罪しようとはしていない。

 被害弁護団は「国が違憲な法律に基づき、重大な人権侵害をしてきたことに鑑みれば、主体は国となるべきで、この救済法で多くの被害者の被害回復が図られるか疑問」と批判している。

 国も人間のすることであるから 誤りを起こすこともある。先の大戦を別にしても、ハンセン氏病の強制隔離の先例もある。誤りははっきり認めて謝罪するべきである。福島原発の事故にしても誰も責任を取らないままに経過している。

 さらには、自民党改憲案では「公益及び公の秩序」が強調されており、実社会でもLGBTは「生産性」がないとする議員の発言などもあり、人権の擁護には今後とも注視していかねばならない。