老いの春

 歳を取っても春は嬉しいものである。若い時は季節は必然的に回っているものだから、毎年出くわすのが当然のような感じがしていたが、九十歳も超えると、暇になったのと、寒さが応えるようになったためか、若い時よりも春が待ち遠しくなった。

 それに、昨年の花見の時に初めて感じたことだが、これまで毎年春の来る毎に、当然のごとくに春の到来を喜び、花を愛でて来たが、この歳になると、もういつ何が起こっても不思議ではない。果たして、来年もまた元気で花見が出来るかしらという思いがふと頭を過ぎったのだった。

 それから早くももう一年経ち、今年もまた春がやって来た。現役時代で、仕事の忙しかった頃には、季節は勝手にやって来て、仕方がないのでこちらも勝手にそれに対応するというような関係であったのが、歳を取るといつしか季節との関係が深くなる。

 暮れから正月にかけて、日が短くなって、寒さの厳しい冬には、老人は早くから家にこもりがちになり、早寝早起きが一層促進され、朝は早くに目が覚めて、暖かい家の中で、遅い夜明けを待つことになることとなる。

 正月を新春などと言っても、それからが寒くなるわけで、旧正月春節が冬たけなわの頃である。しかし、二月も進んでいくと、いつの間にか日が長くなり、まだ空気は冷たく、風は寒いが、日差しが明るくなって、光だけが春を感じさせるようになって来る。それが春の始まりである。

 雪中四花は冬でも咲いているが、春は命の始まりのような豊かな花の季節である。二月の半ばにでもなれば、春を待ち焦がれて中山寺に探梅に出かけてみることになる。毎年まだ早過ぎることが多いのだが、それでも、僅かに咲きかけた梅の花を見て、春を期待して心を弾ませる。

 そのうちに二月の末になると、大阪城公園の例年の観梅会が開かれ、あちこちの梅林も賑やかになる。梅花の下にはタンポポが可憐な黄色の花を咲かせることもある。我が家の築山のピンクのボケと青い菫もコントラスト良く咲いている。

 そして三月になるともう啓蟄やお水取りも待たずに、木蓮の蕾が丸く膨らんで割れ、ミモザが黄色い花で溢れ、桃や彼岸桜が負けじと咲く。菜の花やユキヤナギが低い目線を楽しませてくれ、もう冷たくない心地よい春風に新鮮な柳の新芽がそよいで春を感じさせてくれる。

 もうテレビで桜の開花情報が流れ、今日の散歩で確かめた五月山周辺の桜も三分から五分咲きといったところである。若い時以上に春は待ち遠しく楽しいものである。今年も元気で花見が出来そうなのが何よりである。