透析中止は誰が決める?

 昨年8月東京の病院で40代の女性が腎不全で人口透析治療をやめた後に死亡したことが問題になっている。それまで別の病院で透析を受けていたが、シャントが閉塞して、続けられなくなり、問題の病院に相談に訪れた。その結果、病院の医師は透析を続けるためには頸静脈からのシャントを作るより仕方がないと判断し、女性に説明したが、女性がそれを嫌がり、中止の選択肢もあるが、必然的に死につながることを説明したところ、夫とも相談し、中止が死を意味することをも理解した上でも、透析中止を望んだので、その意思を確認、署名もして貰い、透析を中止し、内科的な治療を続けたということである。

 当然、尿毒症が進んで一週間後ぐらいに死亡したが、最後に近くなって苦痛がひどくなると、やはり透析を続けた方が良かったのではと心は揺れていたようである。

 ところが、このような病院の対応が問題となり、東京都は医療法に基づいて病院への立ち入り検査を実施、日本透析医学会は調査委員会を立ち上げたと新聞では報じられている。

 透析医学会では先に透析を中止、もしくは始めないことを検討出来るのは、患者がガンなどを合併していて全身状態が極めて悪いか、透析によって返って患者の生命を損なう危険性がある場合に限られると提言で決めている。

 もちろん患者本人や家族の意思決定の前に十分な説明が行われ本人がそれを理解し、納得していることが前提であるが、医師単独ではなく、医療チームが患者や家族と話し合うように提言は求めている。一旦透析を中止しても決定の変更を受け入れることにも触れている。

 この問題は先年問題となった人工呼吸器を外すかどうかの問題にも通じる問題である。自殺や安楽死を認めるかどうかにも関わってくる。人工呼吸器の場合には外せばすぐに死に繋がるが、透析の場合には時間がかかるが、確実に死に繋がることになる。その死に繋がる決定を誰がするかということであろう。

 人工呼吸器の場合は本人に意識がなく、第三者が決めなければならない問題であるが、透析の場合は、治療を受けるか受けないかを本人が決定しうる立場にあり、しかも治療を受けないことが死を意味しても、直ちに死に繋がるものではないことが異なる。

 人が社会に生きている以上、社会の制約があるのは当然である。。自殺は現在悪とされ基本的には許されない。しかし実際には自殺は数多く行われているし、安楽死などを認めている国もある。それによって自殺幇助の位置づけも変わってくる。基本的にはいかなる治療の洗濯も本人に決定権があるのは当然である。

 ただし、社会的には目に見えない圧力というものもあるので、法的にはそれらも考慮して判断すべきであろう。日本では昔から「死をもって償う」とか「虜囚の辱めを受けず」など社会的に死を軽視する傾向があったことも参考にすれば、死を選ぶ権利は時代により、その文化によって変化することも考慮すべきであろう。

 それはともかく、透析の場合には透析の開始の決定と、透析の中止は分けて考えておいた方が良さそうである。開始は病状の判断を医師がし、患者の了解を得て、医師が決定して始めているのが現状であろう。しかし、厳密には緊急を要する場合を除いては、医師の情報に基づいて患者が判断し決定するのが本筋であろう。患者の透析をしない権利は社会的な死の自己決定権にも依存するであろうが、患者の反対を侵して無理やり透析を始めることは誰にも出来ない。放置してれば確実にしにつながるガンの治療を受けるか受けないかを決めるのも本人であるのと同じであろう。

 透析の中止は通常では考えられないことであり、殆どの場合は透析学会の提言に従うべきであろう。ただ、明白な意思の決定のないまま始められてしまった透析を、患者が途中で、状況を理解した上で、中止を希望した場合は事情が異なる。この場合にもやはり社会的な制約も考慮せざるを得ないであろうが、基本的には決定権は患者にあるべきであろう。

 新聞報道では日本透析学会の提言に反する決定には問題があるとし、同学会の提言作成にかかわった理事の岡田一義・川島病院(徳島市)副院長(腎臓内科)も「終末期ではない患者に医師が透析中止を提案したのだとすれば問題で、医師の倫理から外れている」と話している。

  しかし、基本的には、自分の体の操作や、その結果の決定権は本人にあることが大前提で、透析を始めるかどうかも、途中で止めるかどうかも十分な判断材料を得て本人が決めるべきことで、医療側はその判断に従った上で最良の医療を行うべきものであろう。

 尊厳死安楽死の議論につながる問題でもあり、人間の尊厳を踏まえて社会と個人の死の決定権をどこらで調和させていくかが問われている現在、このような問題が社会的にどのように解決されていくかその成り行きを注目したいものである。

追記: その後、日本透析学会はこの福作病院の例より提言自体を見直し。5月に新しい提言をまとめることになったようである。