ある友人の死

 九十歳も過ぎれば、既に亡くなった友人も多く、僅かに残った友人さえひとり、またひとりと消えていく。住所録を開くと、抹消した横線ばかりが目立ち、ページによっては誰も残っていないところもある。

 つい先日も残り少ない友人の一人が亡くなってしまった。家族ぐるみの付き合いをしていた中学校の時のクラスメートで、この春には二人で紀三井寺へ行ったところであった。

 以前に大動脈の手術をした他は元気だったが、前立腺で病院に受診することになっていると言っていたのが、この夏の初め頃だったであろうか。その後間も無く、「病院を受診した後、直行でこの施設に入れられたのだが、退屈で困っている」という連絡があったので、早速そこらにあった二、三の本などを持って、その施設に見舞いに行った。

 三、四階建ての新しいビルで、階下がクリニックで、上階はそれとは別の名前のつけられた施設になっている。この頃は老人ホームでも色々な種別があってわかりにくいが、初めはどういう種類の施設で、どうしてそこへ入れられたのか、本人に聞いてもはっきりしなかった。

 脚に痛みがあるとかの話だったが、行った時には痛みもないそうだし、一見では特に悪そうなところも見当たらない、室内では普通に歩いている。本人は「閉じ込められて、何もすることがないし、飯は甘くて口に合わないし、外へは勝手に出ていけない」と苦情を言っていた。

 彼の子供はお嬢さん一人で東京在住で、奥さんは昨年暮れぐらいからだったか、大腿骨骨折で車椅子生活になった後に、他の施設に入ってられる。娘一人で両親の遠距離介護をしなければならない状況である。その時はお嬢さんの方が9月末までは東京で手が離せない仕事があるので、一人で家に置いておくのは危険だし、安全策として、仕事が一段落するまで施設に入れることにされたのだとばかり思っていた。

 従って、私としては、「部屋の中で一日中じっとしていては、かえって健康に良くないから、少し体を動かすようにした方がよくはないか。外出できなければせめてベランダへ出てスケッチでもしたりしては」と奨めたり、模型を組み立てるのが好きなので、後日プラスチックの組み立てセットを持って行ったりし、「九月末になってお嬢さんの手が開くまでの辛抱だ。そしたらまた家に帰れるよ」などと言ったりしていた。

 本人も元気そうで、家でしていた剣道の素振りをするため木刀を持ってきて貰うとか、「黙ってここを抜け出して、信州を経て、東京まで行こうかとも考えているのだ」などという話などもしていた。ここを出たら「今度は一緒に倉敷から小豆島へ行こう」という相談もした。

 ところがお嬢さんの仕事が一段落過ぎて、帰阪された頃になると、本人はもう元気がない。訪れた時も、車椅子に座りぱなしになっているかと思えば、次には寝たきりのようになり、下肢に痛みもあるようで、むくみも出て来た。丁度、主治医の説明があるので、一緒に聞いて欲しいとのお嬢さんの要望で、主治医の説明を聞かせて貰った。

 その時、MRIの画像を見せてもらって全ての疑問が氷解した。実は前立腺の癌がもうあちこちに転移し、腰椎などは骨が半ば融解しており、目を覆いたくなるようなひどい所見であった。これではもう長くはないと思わざるを得なかった。

 病院を受診した時点で既に転移巣がひどく、年齢その他総合的に考えて、積極的な抗がん剤治療などよりも緩和治療を選択されたのであった。それが正解であった。私はそれまで迂闊にもその施設がペインクリニックの経営であることに気がつかなかったのだが、そのペインクリニックの緩和病棟というのがその施設の役割であったのである。

 入所当初より歩けるのに、一人では外へも出れないし、部屋の外は車椅子に乗せられるのだと言っていたのも、転移のある腰椎の骨折などを恐れてのことで、職員の対応もそれに沿ったものであった。本人がどれほど説明を受けていて、自分の病状を理解していたのかは分からないが、入所当時は退屈するほど元気だったし、痛みがあればペインクリニックに対応してもらえたし、病院で無益な癌の治療を受けて副作用などで苦しむより、正解だったと思われた。

 それにしても、説明を聞いて、それから1週間か10日ぐらい後には、もう帰らぬ人となってしまった。阪大に献体を登録していたので、引き取りに来る前に、お別れの会をして、花に包まれた棺を見送ったが、本当にあっけない別れになってしまった。私の心にぽっかりと大きな穴が空いたような気がした。

 何事にせよ、初めがあれば終わりもあるもので、同い年の私も、いずれそのうちに後を追うことのなるであろうが、仲の良かった友達が先に消えて行くのはやはり寂しいものである。

 今は静かに冥福を祈るばかりである。