小学校の教育勅語

 

 この民主主義の世の中に、天皇から臣下の国民に下賜された教育勅語を、また学校教育に取り入れようなどとする政府や日本会議などの右翼勢力の動きが次第に強くなっているように感じられる。例の森本学園の幼稚園で、園児に教育勅語を暗記させていたり、現職の大臣が教育勅語の精神は今でも教育に取り入れても良いところがあると言ったりして、問題になったこの頃である。

 戦前まだ子供だったの頃の小学校における教育勅語は、私にとってどんな存在だったのであろうか。その頃のことを思い出してみたい。

 当時の小学校では二宮金次郎の像と、教育勅語を保管する奉安殿の二つは必須のものであった。金次郎の像は貧しくても勉学に勤しめという象徴であり、 奉安殿の方は教育勅語を保管しておく場所で、両方とも大抵は誰でもが通る校門を入ったすぐの所にあり、その前を通る時にはお辞儀をするように言われていた。

 教育勅語は”恐れ多くも”天皇陛下からご下賜された有り難いものなので、学校としては命を張ってでも守らなければならない物であった。本体は巻物に書かれており、それを桐の箱に収めて収納してあった。従って、奉安殿は大抵は火事があっても燃えないコンクリート製の祠のような構造に作られており、もちろん鍵がかけられ、厳重に保管されていた。

 当然、教育勅語の取り扱いについても、この上なく慎重にしなければならず、祭日などで勅語の”奉読”をする時には、礼服を着て白手袋をはめた校長が二、三の教師を引き連れて奉安殿に向かい、最敬礼をしてから扉を開き、恭しく勅語の入った桐の箱を取り出し、それを三宝の上に乗せて、列を組んでゆっくりと慎重に講堂の演壇まで運ばなければならなかった。

 そして、式典でそれを実際に”奉読”するにも、一定の儀式が必要であった。小学校などでは、実際の式典で間違いがあってな大変なので、前日に生徒たちを全員講堂に集め、教頭が予行演習をするのが普通であった。教頭が勅語を読むような格好をして「朕惟うに」といえば生徒たちは一斉に最敬礼で頭を下げなければならない。「そこの子頭が高い」「もっと頭を下げて」などという声が飛ぶ。

 最敬礼が住んでも勅語の朗読中は頭を下げて”拝聴”しなければならないことになっていた。ただし、予行演習の時には内容は飛ばして次に「御名御璽、最敬礼」と教頭が言う。ここで皆がもう一度最敬礼をしなければならない。「最敬礼終わり」の声がかかると皆が一斉に頭を上げて、くしゃみや咳をしたり、鼻をすすったりしたものであった。 

 当時は冬でも多くの学校では暖房などなく、あかぎれ霜焼けのある子供が普通で、黄色い鼻を垂らしたり、それを啜ってまた鼻腔の中へ引き込めたりする子も多く、その水鼻を袖口で拭くものだから袖口がテカテカ光っている制服の子も多かった。

 本番の式典の時には、上に書いたように恭しく運ばれて演壇の机に置かれた勅語を読む段になると、校長はまず教育勅語に向かって頭を下げ、次いで白手袋の手で桐の箱をそっと開いて、蓋を身に沿わせてそっと置く。次いで、両手でそっと勅語の巻物を取り出し、両手で捧げ持ち、そこでもう一度頭を下げてから、巻物の紐を解き、紐の端を巻物の上端にかけて、ぶら下がらないようにしてから、おもむろに両手で上手に少しずつ巻物を開いていく。

 ここは少し技術のいるところで、左手で巻物の心棒を保持しつつ、右手で巻物を少しずつ引き出すようにくるくると開いていくのである。途中で落としたりすれば大事である。ゆっくり注意深く開き、開き終わると巻物を両手を拡げて保持し、それを捧げ持ち上げてもう一度礼をし、そこから恭しく「朕惟うに・・・」と始まるのである。聴衆は皆一斉に頭を下げて聞くことになる。

 教育勅語は文語体で書かれており、内容も子供にとっては難しい。その頃は訳も分からずむやみに暗記させられたが、不思議なことにその詳しい内容についての噛み砕いた説明を聞いた覚えがない。そのため御名御璽というのは終わりのサインとして認識していただけで、それが裕仁という名前と印鑑だったということなどはずっと後になってから初めて知ったものであった。

 教育勅語などは頭を下げて聞かねばならなかったが、結構長いので退屈し、時にこっそり見つからないように少し頭を上げて校長の様子を見たり、横を向いて隣の生徒を見たりしたが、静かな中での私語は出来なかった。

 御名御璽になるとやれやれと思って最敬礼をし、終わって頭を挙げると、予行演習の時と同じように咳や鼻すすりの共演である。それが終わると一斉に私語が始まる。そんな中で「天皇陛下は朕惟うにというが、皇后陛下だったらどういうか知ってるか」などと言ったりしたことを覚えている。

 今でも不思議に思うのは、先にも書いたが、折角の内容なのに、子供には難し過ぎるからというので詳しい内容の解説がなかったのであろうか。「君に忠に、親に孝、朋友相和し」ぐらいは解っても、後の内容にはあまり関心もなかった。

 当時は何でも暗記させるのが一番という教育方針であったのであろうか。「神武、綏靖、安寧、威徳・・・」と言った皇統は暗記させるよりなかったのであろうが、五箇条の御誓文や戦陣訓など、何でも、意味がわからなくても暗記させたのは、説明してもわからないから、暗記させておけば、時が来ればわかるであろうとでも考えられられていたのであろうか。ひょっとしたら仏教でお経を丸暗記していた習慣に繋がっていたのであろうか。

 当時の子供達にとっては、暗記させられて、何か大事な天皇陛下のお言葉だという認識はしたものの、それが日々の生活で守るべき教育指針だというようなことは子供にはわかっていなかったように思われる。

 勅語を復活させようとする人も、今の時代にまた昔のように教育勅語を丸暗記させたところで、内容が受け入れられるわけはなく、単に権威の頭からの押し付けになるだけであろう。あのような時代が再び来ないことを願うばかりである。