ズボラのすすめ

 過重労働や過労死が問題になって久しいが、この問題は一向に解決に向かわない。逆に、採量労働制などという資本主義の黎明期に流行った労働の請負制のようなものが拡がりそうで、過重労働の問題は余計に悪化しそうな気配さえある。

 果たしてそれだけ働かないと人類はこの競争社会の世界では生きていけないのであろうか。科学技術が発達して来て、物事の生産性が上がれば、単純に考えれば、同じ時間に従来よりも短時間で同じ成果が得られるのだから、その分、楽をして遊んでいられることになるはずである。

 例えば米作の農業を見てみよう。昔はせいぜい牛や馬を使うぐらいで、あとは全て人力で畑を耕し、苗を植え、水をやり、除草し、穫り入れをするなどと、一年中、朝から晩まで汗水流して働いていてやっと成り立っていたのが、今では土日だけ、耕運機などを使って働けば、それだけで稲作が成り立つようになったわけである。

 後の日は遊んでいても、昔並みの生活なら出来るはずである。もちろん現在の生活にはそれよりはるかに必要なものを手に入れなければならないが、全ての生産が昔とは比べ物にならないぐらい効率よく大掛かりに作れるようになっているので、今の生産力と人々の暮らしの需要を比べてみると、そんなに無理に働かなくとも人々の暮らしは十分出来るはずである。世のIT化が進めば益々働く人手は減らせることになるであろう。

 あとは分配の問題があるだけである。これが最大の問題であるが、政治でそれをうまく捌くことが出来れば、今では人は過労になるほど働かなくとも、皆が十分食って生きて行けるはずである。そう考えれば、過重労働で過労死するほど馬鹿げたことはない。もっと人生を大事にすべきである。

 先日、新聞にアリの話が載っていた。働き者のイメージが強いアリの世界でも、あまり働かないアリがいて、集団の中から働き者を取り除くと「怠け者」が働くようになり、一方で「怠け者」を除いても新たな「怠け者」が出てくる。広くそう言われているが、それを確かめた人がいて、やっぱりその通りだったそうだ。

 なかなか仕事をしないアリもいる多様な集団の方が、効率は落ちても存続には有利なのだろう。余力のあることが大事で、生物は他の生物や資源との関係を壊さないように、進化してきたのではないだろうかということだった。

 人の世界も、生産性がこれだけ上がれば、利巧に分配しさえすれば、働かない者がいても十分やっていけるはずである。働き過ぎる者ばかりの世界では未来は閉ざされるのではないだろうか。良いものも悪いものも、よく働くものも働かないものもいて、一杯多様性がある世界が良い社会で、人類が栄える道ではなかろうか。

 働くことも大事であるが、ズボラをしてゆっくり休むことも大事にすべきであろう。

アリに負けないぐらいの「怠け者」を養うゆとりは十分あるのではなかろうか。ごく一部に過ぎない者が利益を独占せず、軍備費などに無駄な支払いをしなければ、皆が少しだけ働いて後は自分の好きなようにしていても世の中は回るはずであろう。

 勿論、そう簡単にはいかないことは解っているが、人類の選択の如何で、分配の問題をクリア出来れば、決して不可能ではないとも言えるのではなかろうか。