戦争体験を語った人、語らなかった人

 戦後70年以上も経てば、もう実際に戦争に行っていた人は殆どいなくなってしまって、戦争の話を聞く機会も減ってしまったこの頃である。日常の会話に先の大戦や戦後の話が出てくることも少なくなってきた。

 しかし今だに親や親族が犠牲になった思いを抱えている人は多い。先日もある人と話をしていたら、その父親がガダルカナルの生き残りだということがわかったが、その人は「父は戦争のことは死ぬまで全く話さなかった」と言っていた。

 それで思い出した。私の若い頃には戦争帰りの先輩が沢山いたので、その人達から嫌という程戦争の話を聞かされたものであった、その中に戦争に行っていたのに、戦争については全く話そうとしなかった一群の人たちのいたことである。

 私が子供の頃には、日本が宣戦布告もしないで中国へ攻めていった、「支那事変」(日中戦争)から帰った兵隊たちが、子供にまで自慢話を聞かせたもので、そのお陰で私が最初に覚えた中国語が「姑娘、来来」であったことが戦争の性格を表している。

 ただしここでは、そのような戦時中の話は別として、戦後に医者になってからも、当時はまだ先輩にあたる医師で、軍医として戦争に行っていた医師が多かったので、何かにつけて戦場などでの体験談を聞かされたものであった。

 その多くは自慢話で、当時の私たちは何となく戦争に対する贖罪感を持っていたので、そんなことには御構い無しに喋る戦争の話にいささか辟易させられたものであった。

 しかし話している方からすれば、戦争体験はその人にとっては、それまでの人生の中での全く非日常的な特殊な経験なので、幸運にも生還したからには、自分の体験を自分の中だけに秘めて置けず、他人に話して共感して貰いたくて仕方がないのである。その気持ちも判るので我慢して聞き役を引き受けざるを得ないことが多かった。

 軍医でいっていた人が多いので、直接先頭に関わったというより、もちろん危険は伴なったであろうが、比較的安全な後方勤務などが多かったこともあり、それらの先輩たちにとっては、戦争の残虐さや非人間性をそれほど感じずに済んだ人も多かっただろうから、余計に忘れられない思い出になっていたのかも知れない。

 しかし、当時でも、同じように戦争体験がありながら、上述のこの間会った人のお父さんのように、自分の戦争体験を全く話そうとしない人たちがいることにも気がついていた。ガダルカナルの生き残りのように、実際に最前線で戦い、生死の分かれ道を経験したような人や、戦争に伴う残虐行為などに関与せざるを得なかった人、シベリヤに抑留されて過酷な生活を強いられた人などは、口を閉ざして決して自分の過去に触れようとしなかったのが特徴的であった。

 同じ戦争体験者でも、こうも違うものかと当時から両者の対比があまりにも際立っていることが気になっていたことを思い出した次第であった。