対馬・壱岐巡り

 以前から一度機会があったら対馬に行ってみたいと思っていたが、自分でわざわざ計画を練り、前調べをしてまで行く程でもないので、便利なツアーでもあればそれに乗っかって行くのがよかろうと考えていた。

 しかし、嫌という程送ってくる旅行社のパンフレットには壱岐対馬旅行というのは案外少ないし、何故かあっても、大阪からのツアーは泉大津からフェリーに乗って一晩かけて博多に行ってというスケジュールのものしか目に止まらない。新幹線で2時間半で行けるところをわざわざ船で行くこともないのでパスしていたが、たまたま、朝の新幹線で博多に行って、そこから高速艇で対馬へ行くツアーがあったので、今回はそれに乗っかって行ってきた。

 ただしツアーなので、対馬は南の厳原周辺のみで、朝鮮半島の見える北の端の展望台まで行けなかったのは残念であったが、立ち寄った南に方の展望台でも夜に釜山あたりの灯りが見えるという話は聞く事が出来た。

 それぐらいで、対馬は韓国に近いので、古来朝鮮の影響が強いのは当然であろう。昔の藩主の代々の墓も訪れたが、宗氏という一字の姓からして朝鮮由来の氏族かと思えるし、朝鮮式の立派な墓石も見られた。一般の方言にも半島由来のものが多いそうだし、今では韓国からの旅行者が多いようで、どこかの駐車場で止まっていた観光バス5台のうち4台までが韓国客のものであった。対馬の土地を買っている韓国人も多いそうである。対馬という名前自体、韓国側からこの島を見ると、二匹の馬が向き合っている姿に似ているところからそう言われるようになったとも聞かされた。

 同じツアー客同士の話で、「どうしてこんな何もないような所に韓国の人が大勢やってくるのだろうか」と疑問の声が聞こえたが、私の考えでは、以前にチェジユ島(済州島)へ行った時の印象から、韓国人は南への憧れが強いので、すぐ近くだということと相まって、対馬に引き寄せられることになっているのではなかろうかと思う。

 事実、対馬は固い岩盤の上に出来たような島で、海岸は殆ど絶壁の岩肌で、平野が少なく、全島が山や山林に覆われている感じで、今でこそ道路も整備されたが、昔は南の方から北の端まで行くには、途中で一泊しなければならなかったそうである。これといった産業もなく、街に活気もないが、観光資源としては朝鮮通信使の歴史を取り上げているようである。あちこちでそれに関連したものが見られた。

 対馬に一泊して、次の日はフェリーで壱岐へ行ったが、壱岐対馬よりずっと小さな島だが、平地が多く、古くから一支国(いきこく)もしくは一大国として魏志倭人伝にも出て来るぐらいに開けており、登呂遺跡や吉野ヶ里遺跡に匹敵する原の辻遺跡という弥生時代の遺跡や古墳群なども見られる。現在でも、対馬より小さいのに人口は同じ程度で、島全体で見てもひらけているし、街並みも大きい感じである。長崎県壱岐病院なども見られたし、朝早くから登校する高校生たちも見られた。

 おそらく、古代には今のように国境もなく、人々は船で自由に行き来していたであろうから、対馬壱岐五島列島から朝鮮半島に沿った南から西にかけての多くの島々、チェジュ島も含み、それと九州や朝鮮半島の南部が一体となった一つの文化圏のようなものがあったのではなかろうか。それが歴史に見る任那百済と日本の関係に繋がっていたのであろうと思われる。

 どこまで真実であるかどうかはわからないが、こうした古代のロマンを夢見させてくれるところが何よりもこの地方の魅力なのであろう。その一端に触れさせてもらって、二泊三日の旅は楽しい思い出を作ってくれました。