道徳教育

 この春から道徳教育が小学校で正式の教課として取り上げらることになったそうである。個人の生き方や内面に関わることを学校で一律に教えることには大きな問題があるが、政府は学校教育の面でも益々戦前回帰路線を進めようとしている。

 道徳教育というと戦前の「修身」のことを思い出す。どんな内容だったか最早正確には思い出せないが、教育勅語を基本としたような話で、いろいろな”偉い人”の話があって、それを見習いなさいと言わんばかりの授業だったような気がする。

 個々の話はほとんど覚えていないが、「修身」に関して一番思い出すことは、中学を卒業してから、海軍へ行って、負けて帰ってきた後、まだ戦後間もない頃に、母校を訪ねた時のことである。

 どういう用事で行ったのか忘れてしまったが、職員室へ行くと、何人かの教師たちがストーブを囲んで色々談笑していた。そこにかっての「修身」の教師がいて「わしら修身など教えたが、今頃そんなことやってたら生きていかれへんわ」と言って驚かされたことが今も忘れられない。

 当時はまだ戦後の焼け野が原の街で、闇市が全盛だった時代である。教科の「修身」は占領軍の命令ですでに廃止されていたのではないかと思われるが、およそ「修身」の教えを守っていては生きていけない世の中であった。それこそ、他人のことなど構っておれず、闇市、買出し、筍生活、物乞い、売春、たかり、詐欺などなど、個人がそれぞれの才覚で、何とかやりくりして、どうにか日々を送るというような有様であった。

 およそ修身とは反対の世の中であった。そんな時代でも何とか皆がやりくりして生きていけるようにするのが道徳であり、教えられた「修身」が如何にインチキで価値のないものだったのかと思ったものだった。

 そういう経験からすると、「修身」が「道徳」に変わったところで、いかに薄っぺらで実際にはあまり役に立たないものを強制して、成功しそうもない従順な国民を再び作ろうと企図するのかと政府の方針を冷ややかな目で見ないでおれない。

 最近の朝日新聞に「道徳どう教えれば」というオピニオン欄があり、そこに道徳の教材の「手品師」という話が載っていたのでそれについて見てみよう。

「売れない手品師がある日、孤独な男の子と出会い、手品を楽しんでもらう。次の日も会う約束をするが、手品師にはその日、大劇場での仕事が舞い込む。手品師は迷った末、大劇場ではなく男の子との約束を守る」という内容の「誠実さ」について学ぶ単元があるそうである。

 私でなくても多くの大人なら、男の子に断って仕事へ行くのが普通ではないだろうか。折角の仕事のチャンスを逃しては将来生きていけないかも知れない。男の子の父親でも恐らく子供に断って会社の仕事にいかねばならないだろう。

 新聞でこれを取り扱った先生は、手品師が迷うところで読むのを中断し、各自に結末を考えてもらうと、様々な意見が集まるそうなので、多様な考えの人がいるのが分かると言っている。それの方が良いだろうが、教科書に結末が書いてあれば、子供達はどう思おうとも、忖度して教科書の記載を「正解」とするよう強制されることになるであろう。

 子供達はここで父親との約束を思い出すかも知れない。そして教えられた「誠実さ」と現実社会での「判断」(身の処し方)の乖離を学ぶことになる。同じようなことを繰り返して行くうちに、人生では表と裏を使い分けねばならないことを悟って行くようになるかも知れない。

 絶対に正しい道徳があるわけでなく、皆が自由に生きるために、お互いの自由を認め合うことを教えるべきで、一定の価値観を押し付けるべきではないだろう。「いじめ」をなくそうとしても、大人の世界に「パワハラ」などの「いじめ」があれば子供の「いじめ」もなくならないであろう。

 戦後にあれほど否定された「修身」を再び持ち出して”礼儀正しい従順な国民”を育てようとしても意味のないことで、時代錯誤であることを知るべきであろう。それより先ずは、大人同士が対等に自由に話せる環境を作ることの方が大事なのではなかろうか。