自衛隊は国民を守ってくれるか?

 自衛隊はあちこちで災害が起こった時など、真っ先に出動して、瓦礫を除いたり、道路を確保したり、直接住民を救助したりして、被害にあった住民たちにとっては頼もしい存在である。当然自衛隊のこのような働きには感謝すべきである。

 しかし、それなら自衛隊はどんな時にでも頼りになるであろうか、平時は良いとして、もし戦争になっても、いつでも必ず、国民を守ってくれるのだろうか。

 軍隊は国家を守るためのものであり、国民を守るためのものではない。民主主義国家では国民が主権者であり、国の主人公であれば、国民を守ることになるのではないかと思われるかも知れないが、どんな組織でも、組織は組織の利害が優先するもので、直接所属する政府の命令に従うものである。国民の利害とは常に一致するものではない。国民の利害に反しても、政府の指示、命令に従わねばならないものである。警察と同じである。

 しかも、自衛隊はその本質や実態は軍隊と同じ国の戦闘部隊であるが、大日本帝国の軍隊と異なるのは、今の日米関係を見るとわかるように、もし大きな戦争になったような時には、自衛隊アメリカの許可がないと勝手に単独では戦えないし、戦う能力もない。

 それでも外国の軍隊が国に攻め込んできた時には、日本の軍隊だから日本の住民は守ってくれだろうと考えるのは当然であろうが、個々の軍人ではなく、軍隊という組織は国家の暴力組織であり、組織として命令に忠実に政府の指揮のもとに、アメリカの意向によって動くものである。自衛隊と国民の利害が一致した時には守ってくれるが、上の記述にもあるように、いつでも利害が一致するわけではない。

 自衛隊の前身とも言える大日本帝国軍隊が国民を守ってくれたか、どうかを見ればよく分かる。沖縄戦では住民が戦闘に巻き込まれ、1/4の住民が亡くなったが、皆がアメリカ兵に殺されたわけではない。日本軍に壕から追い出されたり、自決を強いられた人さえ多かったのである。

 戦後に親を失って孤児になり、街頭に放り出された子供達も、ある統計によると12万人に及んだと言われているが、誰も助けてくれなかった。戦争に負けて、軍隊は解散させられ、国にも助けるだけのゆとりがなかったには違いないが、国からの弔慰金や補償金は旧軍人にはあったが、空襲の被害者や戦災孤児には全くなかったことも知っておくべきであろう。

 これらの事実は敗戦までのことで、今は違うと思われるかも知れない。しかし、自衛隊になってからも、こんなことがあった。まだ冷戦時代で、旧ソ連からの侵略が想定されていた頃、自衛隊と米軍でソ連が北海道へ侵入してきた時を想定した机上作戦が立てられた。

 それによると、ソ連軍が札幌近くまで攻めてきた時には、住民などの避難には時間も手もかかるので、日米軍は一旦札幌は見捨てて、周辺の山岳地帯に退却し、そこで体勢を立て直して戦おうということになったそうである。

 実際に戦となれば、こういう作戦は当然考えられることである。軍隊は住民を助けることよりも戦いに勝つことが目的である。国土や住民を守るためには戦争に勝たねばならない。そのためには大きな犠牲を払わなければならなくなることも当然起こる。個々の住民を守るためではなくて、国を守るために軍隊は存在するものである。

 それを知れば、沖縄戦での住民と軍隊との関係もわかるし、沖縄や石垣島をはじめとする南西諸島への自衛隊の基地建設が住民の危険性をいかに増すであろうかも容易に理解できる。

 敵を攻撃できる基地を造ることは、当然、基地が敵の攻撃目標になることを意味している。小さな島の基地が攻撃されれば、そこに住む住民が安全でないことは沖縄戦の経験が嫌という程教えてくれたことである。

 しかも今後、万一、本当の戦争が起これば、科学技術の進歩から考えて、戦争は質量ともに前回などとは比べ物にならない、大量殺戮になるであろうことは容易に想像出来る。軍備増強すればするほど、国民の被害も大きくなることを覚悟しなければならない。軍備や軍隊は決して国民を守るものではない。

 軍備増強よりも、外交を重視して、近隣国との交流を盛んにして、平和な共栄関係を築く努力をすることが先である。軍隊は決して国民を救ってくれる組織ではないことを知っておくべきであろう。

「肩を並べて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです。お国のために、お国のために戦った兵隊さんのおかげです。」子供の時にこんな歌がありました。それが全く嘘だったことは現実の戦争が教えてくれたことでした。