ベンサン

 この頃の若い人たちはどんな言葉でも簡単に縮めて、それをカタカナでいうものだから老人には中々ついていけない。

 今度は朝日の夕刊に「奈良産ベンサン」という見出しの記事が出ていた。「ベンサン」などと言われても、理解する手がかりもない。しかし「便所サンダル」と言ってくれれば、老人たちにとっては今の若い人などよりよっぽど昔馴染みのものである。

 新聞の記事は「便所サンダル」と言っても、便所で使う履物の一部をさすもので、飲食店のトイレで見かける「便所サンダル」といわれるもので、ポリ塩化ビニールの樹脂を型に流し込んで成形したサンダルのことで、それを製造している奈良の会社が、最近安い外国製に押されて振るわなくなっていたが、飾りなどをつけて可愛い魅力的なものにして売り出したという話であった。

 ところが、このベンサンの歴史は古く、サンダルだけでなく、日本の家庭では古くから使われてきたトイレ用の履物で、日本の文化の一部だと言っても良さそうなものである。

 歴史を辿れば、日本家屋の便所は母屋から離れて外にあったので、便所に行くには必ず履物が必須であった。近代になって、便所が屋内に取り込まれるようになってからも、勿論未だ水洗式ではなく、便所は不潔な場所であるとされていたので、風水上鬼門の位置を避けて造られるなどの配慮もされ、不潔な場所なので便所専用のスリッパなどの履物を履いて使用するのが普通であった。

 そんな歴史から、やがてどこの家でも便所が水洗式となりトイレと言われるようになって、トイレが綺麗になりマットなどが置かれるようになっても、スリッパはまるで未だに必需品のように残ることが多かった。トイレは依然として不潔な場所という観念が抜けないからであろう。

 したがって、普通家の住人がトイレを使う時には利用していなくても、客のある時には礼儀としてお客様用にトイレには、今だにトイレ専用のスリッパを揃えているところが多い。ホテルや旅館でも、部屋用のスリッパとトイレ用のスリッパを分けて備えているところが多い。そのため、つい間違えて、トイレで履き替えたトイレ用のスリッパで部屋へ出てきてしまうようなハプニングも起こる。

 アメリカなどでは、便所専用のスリッパなどを見かけることはない。トイレに対する考え方が違うので、スリッパがないだけでなく、ビジネスホテルのようにトイレはバスタブと同じ部屋にあることが多いし、便器の蓋も必ずしもあるとは限らない。トイレの扉は使わない時には開けておくのが普通である。日本では「臭いものには蓋」の続きで、未だに使用しない時には閉めておくのが普通であるが、アメリカでは扉が閉まっていることは使用中ということの暗黙のサインなのである。

 こう見てくると飲食店などのトイレは殆どがタイル張りかコンクリートの床になっているので、便所の履物はスリッパではなくてサンダルということになる。ここでも面白いのは、靴履きのままの廊下に続くトイレにも「ベンサン」が置いてある所が多いことである。やはり日本では不潔なトイレの伝統は続いているのであろう。

 序でに書いておくと、公衆トイレで一番不潔な所は、多くの人が気にする尻を乗せる便器の蓋ではなくて、個室の扉の取っ手だということである。