八月はやっぱり特別な月

 昨年もこのブログで八月は特別の月と書いたが、今年も八月になるとどうしても特別に過去を振り替えざるを得なくなる。もう73年も前のことになるが、今でも8月6日の原子爆弾、15日の、天皇の聞き取りにくいラジオ放送のあった敗戦日が、昨日のことのように思い出される。

 原子爆弾の投下は8時15分、当時いた江田島海軍兵学校における朝の自習時間だった。突然ピカと閃光が光ったと思ったらやがて、ドウンという地響き、外へ出てみればあの原子雲が雲ひとつない青空にむくむくと空高く昇っていった。この光景は今も網膜に焼き付いたまま消えない。

 原爆についてはそれだけではない。8月24〜5日頃、兵学校から復員する時に通った広島の焼け跡、広大な一面の焼け跡の続く向こうの日々山が印象的だった。大阪などの焼け跡とは違った、何か燐の燃えるような匂いのした焼け跡、原子爆弾による内部被曝で腸管出血が起こっていたのを赤痢と思ったのか、焼け跡の焼け残りのひん曲がった鉄棒に結びつけられていた紙切れの「赤痢が流行っている生水飲むな」と書かれた文字や、背中一面が赤と白の斑点のようになった二人の生き残りの被爆者が互いに腕を組むようにして、幽霊の如くヨタヨタと去って行った姿など、宇品から広島駅までの間を歩いた時に見た景色が、敗戦に打ちひしがれていた私には、この世の終わりの景色のように思われたことを今でに忘れることが出来ない。

 そして、大阪へ帰ってからの世の急激な変化。それに伴った人々の豹変ぶり。急に変われる人も変われない人もいた。ただ大人たちの豹変振りに無性に腹が立って仕方がなかった。私にとっての敗戦は単に国が敗れただけではない。それまで私を支えてきた全てのものがなくなってしまったのである。突然、神も仏も失ってしまった私にはどうして良いのかわからず、完全に世の中の変化についていけず、ただ無意味に闇市をぶらついたりすることしか出来なかった。

 それが始まったのが八月だった。ここで私の人生はきっぱりと別けられるのである。八月は国の敗戦日であり、私の人生の分岐点なのである。この年にはお盆もお彼岸もなかった。闇市には復員軍人、傷痍軍人に混じって浮浪児があふれていた。あの混沌とした敗戦後の世の中、それが突然出現してきたのが敗戦に続く夏から秋のことであった。 

 今朝の新聞に浮浪児から生き残った人の手記が載っていたが、本当によく生き残られたものだと感心するとともに、あの終戦後の浮浪児たちの姿が思い出されて、なぜかその記事を読後も捨てることが出来なかった。

 私にとって敗戦までの17年とその後の73年とでは、後者の方がはるかに長く、殆どがそちらを生きてきたようにも思われるが、分岐点となった敗戦による衝撃は今なお尾を引いており、その時から根底に根付いてしまったニヒリズムが今なお私の闇の世界に横たわっているのをどうしようもないのである。

 狭い価値観を押し付けて敵を作って戦争するような愚には決して加担してはならない。