自分のいない世界

 ある時、心斎橋筋の喫茶店に入った。二階の店の窓際の席が空いていたのでそこに座った。注文したものが来るまで何気なしに窓から外を見ると、心斎橋筋の人通りが見下ろせた。いつもの通り、相変わらず大勢の人々が行き来している。

 商店街の人の流れは川のようなもので、大勢の人が行き来する様は昔も今も変わらないが、歩いている人達の構成は変わり続けている。昔、5〜6年振りぐらいに、久しぶりで心斎橋を訪れた時に、人の流れは同じようだが、ふと気がつくと、歩いている人達がいつの間にか自分より若い人ばかりになってしまっている事に気付いて驚かされたことがあった。

 それでもその頃は、人出も多いだけに、たまに街角などで、ひょっこりと知人に会ったりして、「久し振りだね。どうしてるの」などと挨拶を交わしたりしたこともあったものだが、もう最近はそんな可能性も殆どなくなった。

 多くの友人は最早あの世へ逝ってしまったし、たとえ生きていても、こんな所へ出てくる老人は少ない。当然、偶然に出くわすような可能性も極めて少なくなってしまった。たまに通りがかりの人を見て「あいつではないか」と思うこともあるが、考えてみれば、もう死んでいない友人の空似で、がっかりさせられるだけである。

 最近でも、人の流れは変わらないが、その内容の変化はかってない程ひどい。近頃では、道行く人の半ばは外国人である。「こんにちは」と言うより「ニーハオ」と言った方が通じる人達ばかりのような気さえする。最早知った人の会うこともないし、店もすっかり入れ替わって、知らない店ばかりが並んでいる。大衆の中の孤独を感じさせられる。

 心斎橋は一つの例であるが、最近はもう何処へ行っても、世の中が変わってしまったような気がする。世代も違えば、外観も異なった人たちばかりが歩いている。いつの間にか自分が異邦人になった気にさせられる。かといって外国に来たわけではない。街の風景は変わっても、言葉はt通じるし、紛れもなくここは大阪である。昔の名残もあちこちに見出せる。

 しかし、出くわす人々は知らない人ばかりである。体格も昔とは違うし、外観も昔のように一様ではない。大勢の見知らぬ人たちが足早に通り過ぎて行く。どの人も自分の知らない世界で暮らしている。自分だけが異世界にいて、外から世界の動きを見ているような感じさえする。

 実際にもう90歳を過ぎて仕事も殆どしていないのだから、最早世界は自分とはあまり関係なしに動いているのだから、そう感じるのであろうか。若い時には経験したことのない感じである。こうして老人は徐々に世界から排除され、消されて行くのであろうか。一抹の寂しさもあるが、この年になれば、天命に任せるより仕方がない。

 以前に、先輩の94歳の老人が「私なんかこの年になればもういつ死んでも良いが、そうかと言って誰かが刃物を持って殺すぞといって来たらやっぱり逃げますわ」と言っていたが同感である。周りがどうあろうと、元気なうちは好きなように生きて、最後はあっさりと死にたいものである。

 死んだ後の世の中がどうなろうと知りようもないが、そうかと言って希望がないわけではない。どんな世の中になるにしろ、自分が生きて来たこの世である。自分が死んだ後も、再びあの嫌な戦前のような世の中にはなって欲しくない。過去のような過ちを繰り返すことだけは何としてでも避けて、皆がお互いの多様な価値を認め、平和で、少しでも今より幸せな生活が出来るようになることを願って止まない。