年寄りは鞭打たれて働かされる

 以前に同じ表題で小文を書いた記憶があるが、最近の政治の動向を見ていると、いよいよ「年寄りが鞭打たれて働かされる時代」が近づいてきたことを感じないではおれない。

 何せ少子高齢化がますます進み、人口は減って行きつつある。どこも人手不足で、中小企業では後継者がいないので店をたたむところも多く、大学卒業生の就職率は百%だそうである。それでも人手不足なので、この国は極端に移民を嫌いながらも、研修制度などのいびつな形で外国人を入れないと3K職場などは回らない。

 老人ばかりが多くなって、社会保障費が膨らんで財政を圧迫し、老人の医療保険介護保険は破綻しそうだし、介護要員も不足し、やがて老人は十分な介護も受けられなくなるだろうと言われている。物価は上がっても年金は削られがちで、老人の生活は苦しくなりつつある。社会の格差が広がり、家族が崩壊に向かい、孤独な老人が増えている。

 一方、このように少子高齢化、人口減少で社会が大きく変わろうというのに、過去の夢が忘れられないのか、経済ばかりは高度成長を続けようとして、積極的に基本的な社会のあり方を変えようとしないばかりか、対米依存を強化しようとして膨大な軍事費を支出し、先の見込みがあるのか疑問なのに、日銀は極端な低金利政策を変えようとしない。

 人手不足を補おうとして「女性の輝く時代」だなどとおだてて女性の労働力を増やそうとするが、今だにセクハラ問題を起こしても、男性優位社会の構造は旧態依然のまま一向に改まらない。女性が積極的に自己発現のできる世界はまだ遠い。

 そこで最も目をつけられるのが有り余ってくる老人の労働力ということになる。幸い今の老人は昔より長生きするようになり、定年を60歳から65歳に伸ばしても、65歳を過ぎてもまだまだ元気な老人が多い。

 街の中で見ても、若い人たちがストレスでイライラしながら疲れ切って働いているのに、まだまだ元気で体力はあり、退職金をもらって多少のゆとりもあるこの年代の人たちが、職場で一緒だった友人たちと連れ立ってあちこちで歩いている様は、この世代が今の時代に一番元気なのではないかとさえ感じさせる。

 人手不足の社会がこの層を見過ごすはずはない。彼らを使わない手はない。会社は再雇用で使おうとするし、ハローワークで足りない分は老人人材センターを通じて老人に依頼することになる。老人の方では、社会のゆとりが少なくなるとともに、減らされる年金や老後の備えのために働かねばとの思いも増えてくる。

 そんなことで定年後も働く老人が増えている。まだ元気な老人が社会のために働くことは良いことである。定年後のやれやれ思う時期をゆっくり休むのも、羽を伸ばして自分の好きなことをするのも、社会のために尽くすのも良いことである。老人が皆、自分の意思で自由に人生を楽しめれば素晴らしいことである。

 しかし、老人の必然としての老化現象に伴う体力、気力の衰えは避けられないことを知っておかねばならない。老人が集まれば共通の話題は「どこが悪い?」「どんな薬を飲んでいる?」ということになり、どこも悪くないと仲間に入れて貰えない?ことが多い。老人と病気は切っても切れない関係にあるが、歳をとるほど、人によるばらつき、個人差が大きくなることが老人の特徴であることにも気をつけるべきである。

 現に自治体などの老人の人材センターから出向いた老人たちが仕事中に起こす事故が問題になりつつある。元気な老人が自分の意思で、自分にあった仕事をすることは良いことである。それにょって健康を保てることだってある。しかし、長年社会のために働いてきた老人たちが老後の生活をゆっくり楽しむ権利も奪ってはならない。ましてや働くことが悲劇につながることは避けるべきである。

 例え元気な老人でも、強制されて楽しみや休養の時間を奪われてまで働くべきではない。長年社会に貢献してきた老人は尊重されるべきである。ましてや年金や社会保障、介護が削られ、生活が圧迫されて、嫌でも働かねばならないように老人を追い詰めるべきではない。

 バラツキの大きな老人を一律に老人として見るべきでもない。平均値で老人に対処して政策をたてようとすれば、体の弱くなった老人が自ら鞭打って働かされることになるのは必定である。かっての姨捨山へのただの遺棄よりも、酷使して遺棄というさらに残酷な光景が繰り広げられることになりかねないのではなかろうか。