ソール ライターの写真展

 伊丹の美術館でソール ライター(Saul Leiter)の写真展を見た。ニューヨーク出身の写真家で、数十枚の写真を主とした展覧会であったが、この写真展を見て、久しぶりにガツンと頭を殴られたような気がした。

 昔は写真といえば、どこに焦点を合わすか、絞りをどうするか、シャッタースピードをどのぐらいにするかが基本で、全てはそこから始まったものであった。ところが最近はカメラの性能が良くなり、スマホででも精密な写真まで簡単に取れるようになり、日常生活でも、文字と同じぐらいにどこででも広く写真が使われるようになり、写真が誰にとっても身近なものになった。

 しかし、あまり簡単に取れるようになったので、写真の原点としての撮り方などを考えることがなくなり、結果として、最近見る写真はいつしかどれもパンフォーカスの表面的な写真ばかりとなり、いつの間にかそれに馴染まされてしまって、写真の原点に立ち返ったような写真、写真でしか出来ない表現と言ったものが忘れがちになっていたような気がする。

 このソールライターの写真展は私にそういった写真の表現の原点を嫌という程思い出させてくれた。世に溢れる写真の中で、報道写真や風景写真などを見て、その被写体に感心することは時にあっても、写真的な表現の仕方に驚かされることはあまりないが、この写真展は表現の仕方に警告を与えてくれた数少ない写真展であったといえよう。

 鋭いピントがあった点と周囲のボケとのコントラスト、それによる立体的な画面の構成が思わず昔の写真の原点に帰れと警告しているように思えた。ある一点に焦点を当て、周囲を極端にぼかして、目的物を鮮明に浮かび上がらせる方法は当たり前のことだが、最近はあまりお目にかからない方法である。

 高架鉄道から見下ろした下にだけピントを合わせた写真、雨に濡れた建物の中からガラスを伝わる水滴にピントが来ていて、その向こうに写るボケた人物のシルエットが主役になっている写真など、浅いピントで視野の一部だけを浮かび上がらせ他を極端にボケさせた表現などは写真でしか出来ない表現で、今ではあまり見られなくなってしまったが、今一度振り返って、こうした表現の仕方を利用しても良いのではないかと思った。

 もちろんこのソール ライターという人は本来画家なので、色彩感覚にも富み、「カラー写真のパイオニア」とも言われる人だけあって、写真の中の色彩の使い方がうまいだけでなく、写真にゼラチン絵の具や水彩で着色したような作品も中々味があり楽しませてもらった。