「戦闘行為」よらない「戦闘」による戦死は「名誉の戦死」にはならない?

 先日新聞を見ていて驚いた。野党議員が海外派兵の自衛隊の日報にあった「戦闘」という記録について「質問主意書」で質したところ、政府は「国語辞典的な意味での戦闘と自衛隊法などで定義する戦闘行為とは異なる」という答弁書を作り、閣議決定されたそうである。空いた口が塞がらないと言わねばならない。

 言葉の意味が不確かな時には、国語辞典を引いてそれを根拠に考えたり、発言したりするのが普通であろう。政治的なやりとりで、同じ言葉でも政府に都合のようような言葉に置き換えることはこれまででもしばしば見られるが、今度の場合には同じ言葉の意味まで勝手に都合よく変えようというものである。

 皆に共通した言葉を根拠に議論がなされ、法律なども作られ、社会が動いているのに、その言葉が通用しないのであれば話し合いも出来ないことになる。

 戦争を平和のためというのは昔から世界的に権力者が使ってきた言い回しだし、全滅を玉砕、退却を転進と言い、やがては敗戦を終戦、占領軍を進駐軍などと言葉を置き換えてきた政府の歴史は古いが、同じ言葉をそのまま使って内容を変えようという試みは流石にあまり聞いたことがない。

 また、法律の文面をいかに都合の良いように解釈するかを考えるのも役人の仕事と言える程で珍しくもないが、文章でなく単語の意味まで勝手に都合よく解釈されては、議論の土台をなくしてしまうことになりかねない。

 日本語として使う「戦闘」が「法律上は戦闘」に当たらないというのなら、あらかじめ法律的な戦闘に当たる言葉を作るか、戦闘という法律用語の定義を決めて周知徹底しておかないと、政府と国民の会話が成り立たないことになるであろう。

 同じ戦闘といっても強さも性質もいろいろであることは当然であるが、自衛隊法などでは多大な犠牲者でも出さなければ戦闘行為にならないというのであろうか。軽度な戦闘で死んでも戦死にはならない可能性も強くなりそうである。それはともかく、政府と自衛隊にだけしか通用しな言葉を避けて、誰にでも通用し同じ解釈が出來る共通の日本語で意思疎通を図ることが必須ではなかろうか。

 日本語を守るためにも、政府が言葉やその意味を勝手に変えたりして言い逃れをするのは止めていただきたいものである。