我が家のトイレ

 中国のトイレ革命のことを書いので、序でに我が家のトイレの昔と今の変わりようも驚嘆に値するので記禄として残しておきたい。

 昔は日本ではトイレとは言わず、便所とか厠と言うのが一般的であったが、便所は汚く、臭く、薄暗く、寒い所であった。生理的な要求で仕方がなしに利用せざるを得なかったが、喜んで行くような所ではなく、出来るだけ早く用が済ませて出てきたい場所であった。

 今のように水洗式などというものではなく、地面に埋め込まれた肥え壺の上に作られた便所に便器が置かれているだけの構造で、排泄物は直接下の肥え壺に落下して貯められることとなり、時々汲み取り屋さんが来て外に向かって開けられた口から溜まった肥を運び出してくれる構造になっていた。

 私の子供の頃には、時々農家の人が天秤を担いでやって来て、肥桶に長い柄杓で溜まった肥を汲んで持ち去ってくれていたが、戦後になって都市化が進んで来ると、「オワイ車」などと言われていたが、糞便回収専用の市のタンク車が街を回って、個々の家の肥え壺から排泄物を吸引して持ち去るようになったいった。

 もう今では、こうした水洗便所以前の世の中を知っている人も少なくなってきているだろうが、昔の便所は臭かったし蝿はつきものだった。便器から下を覗き込むと蝿の幼虫の蛆虫がうようよしているのも見られた。当時は便所だけでなく、網戸などもない時代だったので、人は蠅や蚊と共生していたようなもので、蚊取り線香とともに、蝿取り紙や蠅叩きなどはどの家でも、八百屋や市場などでも必需品であった。

 それでも出来るだけ便所を綺麗にしておこうとして、大便器には木の蓋などをしている所が多かったが、冬などぽっかり空いた便器の下から寒風が吹き上げてくることもあり、暖房もない薄暗い便所を一層に居辛い場所にしていた。また小さい子供などが便器の穴から落ちる危険性もあり、小学校の低学年の子が行方不明になった時などには、先ずは探さなければならない場所でもあった。

 こうして無くては困るが、あっても喜ばれる場所ではないので、「臭いものには蓋」と言わんばかりに、家の中でも冷遇され、大抵北の廊下の端などの薄暗いところにあり、電気も座敷などより薄暗い照明しかされないのが普通であった。それでもまだ屋内に便所があるのは良い方で、田舎などでは、母屋とは別に外に便所がある家も多く、寒い冬の夜に老人が寒風にさらされて寒い便所に行かねばならず、それが脳卒中の原因ともなると言われたこともあった。

 そうそう、忘れていたが、トイレットペーパーなどというものもなかった。今のティッシューよりも厚手のちり紙が重ねて籠に入れられていたりしたが、戦中、戦後の貧しい時代には新聞紙などが代用されたものであった。また手洗いは便所の出口に吊るされた金属の水槽があり、下の金具を上に押すと水が出る仕組みになっていた。また便所を出たすぐの廊下の庭には「つくばい」があったが、ほとんど使われていなかった。

 こんなところが昔の我が家の昔の便所の風景であった。それが思えばわずか半世紀ぐらいの間に、今のように快適な空間の変わってしまったことは考えてみると全く驚くべきことである。もう今では足腰が弱って和式トイレにしゃがむことすら出来なくなってしまっている。

 便所が今では殆ど死語となり、日本中どこへ行っても、水洗でウオッシュレットのついた洋式トイレが普及した今日、今更現在のトイレについて説明する必要もなさそうであるが、最後に少しだけ我が家のトイレの自慢をさせて欲しい。

 我が家にはトイレは二ヶ所あり、一つは玄関の横に、もう一つは二階の寝室の横にある。いずれもウオッシュレット付きの水洗便器を備えているが、二階の方はトイレの面積が普通より広く二畳あまりの面積である。

 パウダールームと呼んでいるが、窓もあり、夜の照明も家の中で一番明るくしてあるし、暖房もあって暖かい。顔を洗ったり、歯を磨く事も出来るゆったりした作りになっている。昔の臭くて汚い、暗い、寒い、出来れば避けたい場所が、いつの間にか今では我が家の中でも綺麗、明るい、暖かい一番快適な空間と言っても良さそうである。

  壁には自作のガラクタアート作品が並んでいるし、本棚もある。新聞も広げてゆったり読めるので、毎朝用を足しながらニュースに夢中になっていたりしているとつい長居してしまい勝ちである。細切れな読み方になってもよいような本も結構次々と読み終えていっている。

 昔のことを思えば本当に隔世の感がある。戦争中や戦後の貧しさを知らない世代の人たちにとっては現状が当たり前かも知れないが、我々にとっては夢のような違いである。この生活が今後どうなっていくのか知れないが、どうか戦争のような愚かなことを繰り返さないで、いつまでも平和な世界が続いて、人々のささやかな幸せが続くことを願って止まない。