淀川の背割堤

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 今年は3月に急に暖かくなって、桜の開花が例年より1週間ぐらい早く、天候に恵まれ、花も比較的長く保ったので、絶好の花見日和が続いた。

 今は時間もあるので、毎日のように花見に出かけた。近くの五月山には、まだ三分咲きの頃と満開の時の2回も行ったし、大阪城北詰の藤田邸跡公園から大阪城へ続く花また花の満開の桜も堪能もした。さらに次の日には、施設に入居している姉を連れ出して、桃が池公園あたりの花見もしてきた。有難いことに今年は天気も良く、どこでもこれまでで一番と言っても良いぐらいの花見が出来た。

 それだけ行ったところで、夕刊に淀川の三河川合流地点の背割り堤の桜が満開という記事を見た。京阪電車で京都へ行った時に、そこらの堤防の桜並木が美しかったことは2〜3度見たこともあったが、背割り堤を直接歩いたことはなかったので、早速、翌朝に早起きをして、女房と出かけてみた。

 現地についても、まだ朝の7時前だったので、人も少なく、好天に恵まれ、気温も良かったが、桜はすでに満開の時期を過ぎて、多少散りかけており、幾らか葉桜の様相を呈していた。それでも、この堤の桜は歴史が古いだけに、戦前から続く太くて大きな桜の木ばかりが並び、それが1キロ以上も続く様はなかなか立派である。

 それに両側から木津川と宇治川に挟まれた、狭くて高い堤がどこまでも続く様はなかなか風情もあって気持ちが良い。はじめは堤の上の花のトンネルを歩き、端まで行って、帰りは木津川の方へ降りて、下から陽に照らされて長く長く続いた桜の行列を愛でながら、写真を撮ったり、スケッチをしたりして、一服しながら、満足して元の入り口まで戻った。

 気候のおかげで今年は例年になく、十分満足するまで花を楽しませてもらうことが出来た。私の歳では、今後いつまで花見が出来るかはわからないが、今はもうこれが最後になっても悔いはない感じである。

 それはともあれ、行く前から気になっていた、この「背割堤」という名前の由来が気になっていたので、帰って早速を調べてみた。どうも「背割り」とは、もともと羽織の裾などの背中の部分を一番下まで縫わずに途中で止めて動きやすいようにしたものを言ったらしく、そこから派生してか、床柱などが後から乾燥して割れ目が生じるのを防ぐために、裏の部分にあらかじめ割れ目を作っておくことなどにも使われてきたようである。

 そんな「背割れ」がこのような堤に使われるのはどういうことかと思えば、どうも「瀬割れ」とも言われるようなので、下図のように川の合流地帯で川の流れをスムースにする工夫として合流地点に堤を拵えることがあったようで、この地も、それに倣っていつの時代かに堤が作られ、初めは瀬を割って作ったので「瀬割れ」と言われていたものが、羽織や柱に使われていた「背割れ」と同音なので、それに倣っていつしか「背割れ」になったのではなかろうか。

 珍しい名前に引っ掛かかっていたものが、自分なりに解釈が出来て納得がいくと、今度は親しみが湧いてきて懐かしさを感じるようになるものである。こうして「淀川河川公園背割堤地区」というのが正式の名前らしいが、急に身近な存在となって機会があればまた行ってみたいと思うようになった。

背割堤(瀬割堤)(せわりてい)

 

 2つの河川が合流したり、隣あって流れるために、流れの異なる2河川の合流をなめらかにしたり、一方の川の影響が他の河川におよばないように2つの川の間に設ける堤防。