東日本大震災で辛うじて生き残った人の声

 昨日3月11日で早くも東日本大震災から7年も経ってしまった。あの日の夕刻テレビで津波のビデオの放送を見ていたが、ヘリコプターで上空から撮ったのであろう映像で、津波が集落を襲い、次々に家々を呑み込み破壊しながら内陸へ向かったどんどん進んでいく様をあれよあれよと固唾を呑んで見ていたが、一番忘れられない映像は、先に高台にたどり着いた人が、津波がどんどん押し寄せてくるのを見ながら、まだ上まで登り切らない人々に「早く!早く!」と叫んでいる光景であった。昨日のことのように今も忘れられない。

 多くの人が亡くなられ、多くの人が仕事場や家を流され、営々と築いてきた全ての生活基盤を一瞬に失われたが、その理不尽で過酷な運命は他人の想像をはるかに超えるものであったことは確かであろう。

 大勢の人が救援に行って、慰めたり、勇気づけたりしたが、そんなことで慰められたり、勇気づけられて、悲しみから立ち直れたというような簡単なことではなかった。

 歌を歌ったり、慰めの言葉を言ったり「一緒に頑張りましょう」と言って後片付けを手伝ったりして励ましたりしても、多くは救援に行った外からの人の思いで、被災者の悲しみはもっと深いものであった気がする。

 当時、名前もわからないが、被災者のひとりが書いてられたSNSで、今も忘れられないものが一つある。全く知らない人なので許可を得ているわけでもないが、被災された人の思いがよく表れているので、長くなるがコピーがあるので、ぜひ読んで欲しい。

『頑張ろう、頑張ろうって言うけど、家が流されたんだよ?

と、福島の兄に電話したら、言われました

おまえ、ちゃんと分かってるの?

超つらいとき、「とりあえず帰りたい、もう帰りたい」っていう、

あの帰る家がね、全部流されたんだよ。

俺、もう、家ないの。

明日も頑張ろう!って決意するような場所がね、ないわけ。

今日も疲れた―!ってドア開けてホッとするような所がね、

全員、一瞬にして、心の準備もなく、いきなり11日から消えたわけ。

おまえ、家ないのに頑張れる?

服も漫画も、化粧道具も、アルバムも、大事にしてたもんも、全部いっき

無い。

よし、頑張ろう!って思える?

すげぇ言われてるんだけど、CMとかで、頑張れ頑張れとか。

ちょっと気を許すと、「一緒に頑張ろう!1人じゃない!」とか言うわけ。

いや、おまえら家あるじゃん?そのCM撮ったら家帰ってるじゃんって。

仕事あるじゃんって。

おれ、船、なくなったんだぞって。

多分、漁師はもうできないと思ってる。

もう、なーーーんもない。

どう考えたら、今、頑張れるんだよ。

ちょっとでも頑張れる何かが、今、俺たちにあるのか?

「いや、今はこっちで頑張るから、おまえらは1年ハワイゆっくりしてきな」

とか言われたい

「おまえらが帰ってくるまでに片づけとくから。家も建てとくから

とか言われたい。そしたら、俺だって頑張るよ。

毎晩、うなされるし、夜いつまでも眠れない。

流された人を何人も見た。

顔見知りも流された。

その頭にある映像を何回も思い出す。

そのたび、津波がこうくるって分かってたら、あの人を助けられたかも、とか。

時間が戻せたら、隣のおばあちゃんちに寄ってあげたかった、とか。

1人でも助けて英雄みたくなったら、まだやる気が起きたかな、とか。

俺、1人で逃げてきたわけ。

誰も助けなかった。おばちゃんとか、何人も追い抜いて逃げた。重そうなもの持ってる人とかもいたのに。

もう100万回くらい、100通りくらい後悔している。

4日目にやっと町に行っていいと言われて、

どっから手をつけていいかからないどころか、

いっそもう何もしたくなくなるような町だった場所を見て、

ここを復興だなんて、微塵も思えない。今も。

蓋をしたい。見たくない。

町を見ると、死にたくなる。

自分人生は、もう終わったなって思うよ。

こっからは、もう、どう頑張っても金持ちにもなれないだろうし、

だって、もう、二度と持てる気がしない。

何も希望なんかないよ。

そんな俺たちがさ、避難所で、CMアイドル俳優を見てさ、

「一緒だよ、1人じゃない」とか言われるたびに、

ああ、あの世界は自分たちとは、もう全然違ってしまったんだと思う。

家がある人の言葉だなーと。安定してるなーと。

そんなCMとかして充実もしてんだろうなーと。

家が流されてなくてさ、帰る場所があって、仕事があって、

地に足が付いてる人が、すげぇ神妙な顔で、お洒落な服で、こっち見て何か言ってるな、と。

おまえに言われたくないと。ほんとに。何も言わないでしい

大丈夫なわけがない。

おまえらに大丈夫だよ、とか言われても、大丈夫なわけがない。

どう見たら、この状況が大丈夫になるのか、胸倉つかんで聞いてやりたい

でも、怒る元気もない。やる気もない。

ボランティアや取材のやつらも来て、色々写真とか撮って、

「実際みると、テレビとかとは全然いますね」とか言ってて、

数日たったら「元気出して頑張って!」とか言って、

自分たちの家に帰っていく。

正直、復興なんてクソ喰らえだと思うよ。

「何か、できることある?」

何を言っていいかわかんなくなって、兄に泣きながら聞いたら、

「正直、不幸になってくれたら嬉しい

と言われた。

「俺たちを幸せになんてふざけたこと思わないで

 俺たちの分、そっちもみんな不幸になってくれたらなー」

と言われた。

「俺たちを想って歌とか作られても今は不愉快から

 東京も全部流されて、それでも「頑張ろう」って言われたら、

 頑張るよ。その人の歌なら聴く。

 知らないやつに、馬鹿たいに「頑張って」とか「大丈夫」とか言われると、

 今は正直、消えてほしくなるよ。

 募金は嬉しいよ。で、ボランティアじゃなくて、ビジネスで、仕事として、

 町を復興に来てくれた方が、こっちも気兼ねなく色々頼めて気が楽。

 正直、ボランティア「ありがとう」とか言うのも苦痛。」と。』

 

 私はまだ震災後に東北へ行ったことはありませんが、敗戦直後に復員して帰った時の大阪の焼け野が原を見た時のことを思い出したものでした。