歳をとると時間がなぜ速く経つのか

 最近よく見かけるようになったQuoraの質問に出てきそうな疑問だが、歳をとると時間がなぜ速く経つように感じるのだろうか。確かに私を含めて年寄りは大抵時間の経ち方が歳とともに速くなって行くように感じているようである。

 私は以前から何故だろうかと考えていて、以前に出した結論は「いろいろなことが絡んでいるのだろうが、一つの大きな要因は歳をとるとともに、毎日の生活が同じことの繰り返しが多くなっていって、新鮮な経験が少なくなって行くためではなかろうか」ということであった。

 小学生の頃は見ること聞くことが新しいことばかりで、なんでも面白く、学校から帰ってランドセルを放り出して、外へ行って友達と散々遊んで帰って、ようやく陽が沈み、夕食というように、新鮮な経験ばかりで、内容が充実しており、1日が長かったように思われる。

 それに比べると、年をとった今では朝早く起きても、パソコンでメールやフェイスブックを覗いたり、新聞を読んだりしているとたちまち昼飯の時間となる。多くのことをこなすからではなくて、目が悪くなるとパソコンを見たり新聞を読むだけでも時間がかかるようになるし、キーボードを叩くのも若者のようにはいかない。間違えて打ち直さなければならないことも増えるし、マウスの動作も遅くなるからである。

 午後も炬燵に入ってテレビを見て、ちょっと近くを散歩したり、本屋などを覗いたりして帰ると、もう薄暗くなって、やがて夕飯ということになり、たちまち1日が終わってしまう感じである。昔はこの上に仕事をしていたのにと思うが、今の状態ではとても一人前の仕事など出来そうにない。

 何もしていないのに時間ばかりが経って行く。時間の経って行くのがどんどん速くなる感じである。まるで年とともに時間に加速度がついて行くようにさえ思われる。子供の時は「あといくつ寝たらお正月」と指折り数えても仲々正月が来なかったのに、まるで昨日のようにしか思えない阪神大震災はもう22年も前のこと、東日本大震災からでさえ早7年経ってしまっている。

 阪神大震災は、いつも早起きなので、もう朝食を済ませた直後だった。食べ終わっていたが、まだ食卓にいた。突然激しい揺れが起こり、観音開きになっている食器棚の扉が開いて食器が雪崩を打って床に落ちて割れるのをただ呆然と見ているよりなかった。その光景がまだ鮮明に網膜に焼き付いたままなのに、考えたみたら、その前年に生まれた孫がもう立派な大人になっているのだから、22年も本当なのだと認めざるを得ない。

 現役で忙しく働いていた頃はいろいろなことが矢継ぎ早に起こり、ゆっくりする間もなく時間はやはり急速に過ぎ去っていったが、振り返ってみると色々なことが思い出に積み重なっていったし、明日からしなければならないことが一杯あって、それらに気を取られなけらばならず、小刻みに時間を消費せねばならず、ゆっくり過去を振り返るゆとりも少なかった。

 ところが、歳をとって仕事がなくなり、毎日が単純な同じような日の繰り返しとなると、新鮮な経験が少なくなるばかりか、中身も少なくなるので、より急速に時間が過ぎて行く感じになるのであろうか。その上、歳をとると何でもすることが遅くなり、一日かかって出来ることが減り、記憶に止まる内容も少なくなるので、一層時間が経つのが速く感じられるのかも知れない。

 若い時なら思い立ったらすぐにでも家を飛び出して出掛けられたのに、今ではいざ何処かへ行こうとしても、身なりを整えたり、眼鏡やケイタイ、鍵、財布と、あちこち探して揃えるのに時間がかかるし、火の元、戸締もチェックしなければならないし、靴を出して履くだけでもさっさというわけにもいかない。その上、杖を取り出してようやく玄関を出ることになる。

 ところが時には、玄関を出てからメガネを忘れたことに気が付いたり、ガスの元栓は大丈夫かなと心配になって、また玄関の鍵を開け、靴を脱いで確かめたりして出直さねばならなことも起こる。ちょっと出かけるのも大変である。時間がかかることになる。何も出来ないうちに時間だけが経って行く。

 出かけなくても家の中にいても、メガネがなくなった。二階に置き忘れたかなと思って階段を上り下りしなければならない。時には二階まで上がって、さて何の用で上がってきたのか忘れてまた上がり直さねばならないようなことも起こる。寒い時などは炬燵に入っていると仲々抜け出せない。何をするにも動き方も遅くなる。若い時のようにテキパキと片付けられない。

 当然、1日に出来ることも少なくなるわけである。その上、年とともに友人も減るし、親戚付き合いも減る。仕事にも行かないと、特別の事のない内容の薄い単調な日の繰り返しになる。こんなことが重なって歳をとれば時間が経つのが速くなるわけである。