老眼の生活

 若い時には私は遠視であった。視力テストで2.0まで読めたので、視力に関しては誰にも引けを取らないという変な自信を持っていた。もちろん、若い間は伊達のサングラス以外は、眼鏡を必要とすることはなかった。ところが三十も半ばを過ぎた頃、何かのきっかけで友人が見える遠方の物が自分にははっきりしないことが起こりショックだったことがあった。遠視の方が調節力が弱く、初老性近視になり易いことを知らされた。

 四十五歳ぐらいになると、次第に近視の程度が強くなり、眼鏡を作ったものの、近くはよく見え、辞書の細かい文字でもよく読めたので生活に不自由はなかった。ただ電話をかける時や本を読む時などには眼鏡を外さなければならないので、つい眼鏡を置き忘れて探し回ったり、新しい眼鏡を作り直さなければならなかったことが起こった。

 それほど強い近視ではないので、眼鏡がなくても普通に行動するのにさして困らなかったので、眼鏡を置き忘れてもすぐに気がつかないので、発見が遅れることに繋がった。明るい所では気が付きにくく、ホテルのロビーなどの薄暗い所へ行って初めて気がつくようなことになるわけである。

 こんな経験もあった。電車がターミナル駅についたので、読んでいた本を閉じて慌てて電車を降り、大勢の人たちと一緒に裸眼でホームを歩いて行くと、薄暗いので眼鏡がないと、全てがはっきり見えない。まるでSFの世界に入り込んだようであったのを覚えている。前も横も大勢の人が動いて行くが、まさにピントの合わない映像そのままで、さっさ、さっさと通り過ぎて行く茫漠とした未知の大きな流れの中に放り込まれたようで、ふと恐ろしさを感じたのであった。

 夜になると、近眼は余計に見えにくい。暗闇にはっきりと映し出される月や星も裸眼では最早その輪郭ははっきりしなくなってしまった。子供の頃、ある本に近眼の子供が「月が二つに見える」と言ったことが書かれたのを読んだ時には、月が二つに見えることをどうしても実感出来なかったが、今やどう工夫してみても、裸眼では月はボケた月が二つ重なったようにしか見えなくなってしまった。

 その代わり、二つが重なってぼんやりするので、それだけ大きく見える。そんなものだと思っていたら、望遠鏡でピントを合わせてはっきり見えた月がこんなに小さいのかと驚いたことがあった。また、空港に近い我が家では、宵の明星と飛行機の区別に迷うことがあった。金星もどう見ても二つに見えるので、しばらく眺めて動くか動かないかでしか判断出来なかった。

 こうした老眼の上に、五十代の後半になると、今度はストレスによる左目の黄斑浮腫が起こった。これについては以前に書いたことがあるので詳細は避けるが、片方の目にしか来ないと慰められて安心すると、暇があれば良い方の右目を閉じて左目だけで見た世界を楽しんだ時期があった。黄斑浮腫のために平行線も視野の真ん中ではくびれて狭くなるし、向かうから来る人が六頭身でも、視野の中心に頭部を合わせるので八頭身に見え、密かにほくそ笑んだりしたものであった。

 しかしその頃になると、目の調節力の衰えは歳とともに次第に固定焦点のようになって来て、近くも見えずらくなってきて、バリラックスのような遠近両用の眼鏡が要るようになって来た。焦点がいくらか遠くに固定されているようで、どちらかというと遠方視の方がまだマシなので家の中などでは眼鏡なしで暮らせるが、本や新聞を読むには老眼鏡が必須となった。

 そうなると今度は老眼鏡をつけたり外したりしなければならない羽目になる。家の中で動き回るとあっちやこっちで老眼鏡がないと用が済まないことになる。ところが着けたり外したりする老眼鏡は置き忘れたり、無意識にかけたまま動いたりで、その度に行方不明の眼鏡探しを繰り返さなければならなくなる。

 困った上で一計を案じて、百円ストアなどで安い老眼鏡をいくつも買って来て、どの部屋にも老眼鏡があるように整えた。これで安心と思ったがそうもいかない。家の中では衝動的にあちこち動き回るので、それにつれて着けていた眼鏡も一緒に動くことになる。その結果、ある所では重なって、ある所ではやっぱりないことになる。

 大分助かりはしたものの、やはり眼鏡を求めて階段を上ったり降りたりすることがなくなることはない。もう今では諦めて成り行きに任せている。時々整理し直せば良いだけである。

 こんなことをしながらますます歳を取ってしまったが、視力はますます悪くなるばかりで、その上、今では白内障の気も加わったのか、新聞などを読むのに女房が薄暗いところで読めるのに、私は照明を明るくしないと読めないし、上記の黄斑浮腫の後遺症で今では左目には中心暗点があって見えにくく、右目単独で見ているようなものなので立体感覚も乏しくなっている。

 単眼で見ているようなものだからか、眼鏡などを探す時にも、メガネケースが同じような色をした椅子の上にあったりすると、そこを見ていても気付かず、他をあちこち探し廻っても見つからず難儀するようなことも起こる。

 それに小さい文字がますます読みにくくなり、折角スマホを使い出したが、字が小さいのでつい敬遠しがちになる。たまの仕事で時に見なければならない検診結果の一覧表など細かい字だぎっしり書かれたようなものを見る時には拡大鏡を使っているが、読むのに一苦労するし、疲れるようになった。

 また、新聞や本などを読んでいても、読み違えることが多くなり一瞬「アレッ」とびっくりすることがある。「拾う」を「捨てる」と読んで驚いたり、「伝う」が「云う」になったりする。左目の中心暗点も絡んでいるようで、真ん中が抜けて「中村様」が「中様」になったり、「北里大」が「北大」に変わったりする。

 昨日は「相棒は死亡によって開始する」と書いてあるので何のことかと見直してみると「相棒」でなくて「相続」のことであった。

 それでも目の見えにくいことも悪いことばかりではない。六頭身の人が八頭身に見えるのもそうだが、それ以外でも、いつも通る最寄りの駅の屋内通路の事務所の入り口に鉢植えの植木が置かれているのだが、いつも遠くから見るとそれが人に見え、しかも枝の伸び具合でちょうど人が扉の鍵を開けようとしている姿に見えるのである。

 初めにはてっきり本当に人物が事務所の扉を開けようとしているところだと思ったが、いつ通っても遠くから見ると同じように見え、近づいて植木だとわかるのだが、それが判ってからは通るたびに同じ変化を確かめながら 通り過ぎるのが楽しみになっている。

 その他にも、家の近くの河原を時々散歩するのだが、ここでも老眼は時に思わぬ楽しみを提供してくれる。前方に人がうずくまっているので釣りでもしているのかと思って近寄ったら流木であったり、あんな所に白鳥がいるのかなと驚きながら近づいて見ると流されてきた大きなビニール袋が河原の木の枝に引っかかっているだけのことだったりする。時々いろいろ想像を逞しくさせてくれことがあり、散歩に楽しみを加えてくれている。

 もう今更視力が回復することはないが、多少の不便はあっても、老いらくの身にはさして困らない。このままでせいぜい楽しく過ごさせて貰おうかと思っている。

 

 

 

 

 

 

検診結果など細かい字でいっぱい書かれている法的な説明など

使用法など詳しいことは細かい字で書かれているので読む気がしない必要なときは拡大鏡  最近はメガネ型の拡大鏡あり、愛用している

 

木が人に見える  てっきり人がいると思って近づいたら広告だったり郵便ポストだったり

白いごみが大きな白鳥に見える