いかに最期を迎えるか

 超高齢化社会で百歳まで生きる人が多くなって、これまで強いて避けてこられた「いかに死にたいか」「いかに死ねるか」が多くの老人たちの大きな問題となって来た。

 一昔前までのこの国では、一人の老人を大勢の家族や近隣の人たちで支えて来たので、老人は家族なり、周囲の人たちに見守られて死ぬことが多かったので、自然の成り行きに任せておけば安らかに往生出来るのが普通であった。

 もちろん全ての人がそうではなくて、姨捨山の伝説もあるが、その場合も息子なりの家族が遺棄の役割を果たしており、また昔でも中には一般世界から離れた孤独な老人などで、行路病人の死として処理されるような場合もあったであろう。

 そういう社会では、多くの場合、死に逝く本人が自分の死についてそれほど考えなくても、周囲の人に任せておけば、自分がどのような経過を取ろうが、適当に処理してくれるので、生前から死についてそれほど深刻に考える必要もなかったのではなかろうか。

 しかし最近のように「むら社会」が崩壊して、人々がバラバラに孤立化し、しかも少子高齢化社会で親類縁者も減り、平均寿命が延びて、孤独な老人が増えると、自分の最後を見守ってくれる人が周囲になく、歳を取っても自分のことは自分で決めて処理するより仕方のない場合が増えてきた。

 社会的にも老人が多くなると、医療などの設備も相対的に不足するし、経済的にも老人医療の維持が困難になる。介護を頼める家族や近隣社会もなければ、社会的な対策も間に合わなくなる。そういう社会で死に直面した老人はどうすれば良いのか。これからの老人は嫌でも自らの死を如何に処理するかを自分で考えないわけにはいかなくなる。

 死は誰にも必ずやってくるものであり、全ての死が治療可能な病気に引き続いて起こるものではない。病院が全ての死を扱うわけには行かない。超高齢化社会ともなれば全ての老人を収容出来る老人施設を作るわけにも行かない。経済的側面からだけ考えても、出来るだけ多くの人には自宅で死を迎えてもらうより仕方がないのではなかろうか。

 しかし、問題なのは昔の自宅と違って自宅には本人以外に人がいないことである。いくら本人が自宅に留まることを望み、社会的にも、経済的にもそれが最善だとしても、孤立して存在し、生活の場である自宅の老人を収容施設や病院と同様に介護や看護することは出来ない。

 増え過ぎた老人を最後まで全て社会で看取ることが果たして出来るであろうか。老人は自ら己の死を他人任せではなく、自ら如何に迎え、如何に処理するかを考えなければならない時がやって来ているのではなかろうか。

 私は九十歳になるので最早いつ死んでも叶わない。何らかの病気が起こっても、治療は苦痛を取ること以外には最低限にしてほしい。体が不自由になっても、人の世話には出来るだけなりたくない。他人に全面的に身を任せることは避けて、最後まで自主的に暮らしたい。そして自宅で一人でよいからそっと死にたい。

 この1月に保守の論客であった西部邁さんが入水自殺して亡くなられたが、この人も生前常に病院で不本意な延命治療や、施設での介護などを受けたくないと言われていたようで、そのために家族に介護上の面倒をかけたくないということで、それも避けたいがための自死の判断だったということらしい。

 死後の処理や周囲への迷惑のことなどまで考えると、どのような方法が一番良いのかまだわからない。死後のことより生前の死の迎え方だけにしても、自分や周囲の条件に照らしてどうするのが最善か、人によっても異なるだろうし、死ぬこともなかなか簡単なことではないようである。