90歳ともなれば

今年の七月が来れば私は満で九十歳になる。よく生きてきたものである。戦争直後には希望もなく、四十二歳まで生きれば十分だと思ったこともあったが、もうその倍以上も生きたことになる。幸い体に大きな障害もなく、普通に暮らせているので良しとしなければならないだろう。

しかし、この歳になれば、若い時とは何かにつけて変わってくる。どうしても自分の経験から物事を見たり考えたりすることになりがちだが、いつの間にか周囲の世界がすっかり変わってしまっていることに気づかされることが多くなる。

私らの世代の人たちと違って、最近の若い人たちは外見でもいつの間にか背の高い人ばかりになって、満員電車などで若い男に囲まれた格好になると、まるで壁に囲まれたようで周りが全く見えなくなるし、女性であっても、もう昔の大根足に六頭身のような人は少なくて、惚れ惚れするような長い足にハイヒールなど履かれると、見上げるような高さである。着ている服装も昔と違ってそれぞれバラバラだし、女性でもスカートを履いている人よりスラックス姿が多い。顔の化粧も濃い。

外観だけでなくて、若い人は皆スマホやパソコンを巧みにあやつり、アベックでいても二人ともスマホを見ながらおしゃべりをしている。電車に乗るとほとんどの人がスマホを見ており、昔流行った夕刊や週刊誌を広げている人が殆どいなくなった。スマホで何を見ているのかと覗き見してみると、いい年をしたおじさんまでがゲームをしているのに驚かされる。こんなことでこの国の将来はどうなるのだろうと、ふと心配が心をよぎりさえする。

それに、昔は大学を卒業したらどこか大きな会社にでも勤めてサラリーマンになるのが普通だったが、この頃はパートで働いて給与が少ないことを嘆きながらも、自分の好きな音楽や絵、その他の趣味や、金にならないようなボランティアなどで自分のやりたいことや好きなことに生きがいを感じる人も多くなっている。

ある時、都心部の喫茶店の二階の窓から下の繁華街の通りを行く人を見ていて、ふと感じたことがある。昔も今も通りを行く群衆は同じだが、その内容は昔と今ではすっかり変わってしまっている。私が死んだ後もこの人の流れの外観は変わらないであろうが、その内容は時とともにどんどん変わり続けて行くのだろうなと思ったことがある。

こちらが歳をとっていく間に、周囲の世界はどんどん私の知らない世界に置き換わっていっているようで、時にふと感じた時には自分がいつの間にかどこか違った世界に紛れ込んでしまったような気がすることとなる。

今度は自分に目を転じて見ても、九十ともなればいくら元気でも八十の頃にはあまり感じなかった年相応の衰えを感じさせられるようになる。八十五を過ぎると周りの友人が急に少なくなってしまうし、それに伴って会合などの機会も減る。仕事もなくなってきて、次第に社会から締め出されてくるのも避けられない。

残った友人と話しても内容は体の不調のことや、政治や社会への諦めのことが多くなる。お互いに慰め合うような話題が多くなる。たまの会合の別れの挨拶は「生きていたらまたね」ということになる。実際にそれが最後になることも珍しくない。

私自身の体調は特に大きな問題はなく、一応は元気で毎朝体操をし、出来るだけ歩くようにもしているが、やはり昔のようには走ったりすれば息が切れやすくなったし、歩く速度も以前のようにはいかない。心筋梗塞も患っているのであまり無理はできない。

毎朝の体操のおかげか、最近はあまり転ばなくなったが、やはり体の平衡感覚は衰えへ、閉眼片足立ちなどをしてみると明らかなので、散歩の時などはステッキを持つようにしている。階段を降りる時には必ず手すりを持たないまでも、いつでも持てるように手を手摺に沿わせて降りるようにしている。

それに根気が落ちたのか、好奇心は昔とさして変わりないと思っているが、昔なら出た序でにあそこにも寄って行こうとしたのが、行く気はあっても、今日はもう疲れたからもうやめて帰ろうということになりやすい。

それに目や耳など感覚器のおとろへも仕方がない。老眼で細かい字が見えにくいのは当たり前だとしても、私の場合は現役時代にストレスによる左目の黄斑浮腫の続きで主として右目だけで見ているようなものなので、本を読むのには困らなくても、読み違えがあったりして読むスピードが落ちた。薄暗い所では女房が読める新聞も電気を明るくしないと読めない。また、立体視が悪いためか同じような色の机や椅子の上に置き忘れた眼鏡ケースなどが見えにくく、探してそこを見ているのに見えず見つからなかったようなことが起こる。

耳も特別日常生活で困ることは少ないが、三人が横に並んで喋っている時に、一人を挟んだ向こうの人の言うことが聞き取りにくい。テレビを見る時も少し離れすぎると、はっきり見えないし、聞こえない。女房との会話も時にちぐはぐになるが、これはこちらの聞こえ方が悪いのか女房の方に問題があるのかわからない。

会話といえば、お互い固有名詞が思いつかないことが多いので、「あれ」「それ」と代名詞でごまかしながらも、名前は出てこなくてもお互い脳で掴んだ映像が一緒なので話しは通じようなことが多くなる。それでも二人ともまだ普通名詞は忘れていないし、認知機能はまだなんとか正常範囲内ではないかと思っている。

それでも物忘れが多くなったことは確かで、動作が鈍くなったことと重なって、外出するのに時間がかかるようになったのが一つの問題である。電気、ガスに戸締りのチェックをして、近視用メガネに老眼鏡、鍵に財布、電車のカード、手帳にボールペン、スマホなどと出かける時の小物を揃えなければならない。それらを抜かりなく揃えることが一仕事である。あちこち探さねばならないことが起こるし、うっかり何か一つが抜けることもある。

せっかく靴を履き、玄関を出て鍵をかけてから気がついて、またやり直さなければならないことも起こるし、ガスの元栓や戸締りなどが心配になってまた戻らなければならなくなることもある。しかも若い時と違って、それぞれの動作が遅いので、余計に時間がかかる。これらも老いには欠かせないことなのであろうか。

最近は人生百歳の時代だと言われるようになって、実際百歳を超える人も多くなって、日常会話にもよく出てくるようになったが、私は百歳にはこだわらない。もうここまで来たら後は天命に任せるのが最善であろう。いつお迎えが来るかわからないが、出来れば最後まで、自分の体は自分で処理できる範囲に保ち、運命を天に任せるのが最良であろうと考えている。