もの言えぬ世そこまで

 戦争が終わり民主主義だと言って何でも好きなことが言える時代になったことを喜んだ時代が忘れられないが、最近はまた次第にものが言いにくい時代に逆戻りして来ているような気がする。ことにこの数年の間にテレビや新聞などが政府に反対するような記事を取り上げなかったり、大事な点を飛ばして報道したり、一方的な見方しか報道しなくなったりする傾向が顕著に見られるようになってきた。

 NHKなどに対する政府の干渉は年ごとに強くなってきているようであるが、高市総務大臣が中立的な報道でないテレビ局に対しては免許取り下げもありうるような発言した頃から、急速にテレビの放送内容も変わり、三人のテレビキャスターが一斉に辞めたことや、右翼団体が名指しでキャスターの攻撃を新聞広告でする事件があったりして、テレビや新聞の記事がつまらなくなり、世の変遷についていくためには、インターネットなどで他の媒体からのニュースなどからも情報を得なければならないような感さえするようになってきた。

 新聞でも慰安婦問題を契機にした朝日新聞に対する執拗な攻撃があり、以来朝日新聞の記事の取り上げ方も変わってきたようで、現在まともに近い新聞は毎日新聞東京新聞ぐらいであろうかと思われる。

 しかも、これらのやり方は明示的な統制などではなく、スポンサーなどを通じた経済的な圧迫や、日本独特のむら社会などを通じたものによるものと言えるのかもしれないが、いわゆる”世間”を介した陰湿な自主的忖度による実質的な統制が多い。戦争中の言論統制も今と同じような主として同様な自主的忖度によっておこなわれたもので、それが極端であったに過ぎなかったと言えるのかもしれない。

 教育現場に対する締め付けも、中立的と言いながら国家や国旗の押し付けから始まり、最近では教育現場での、保護者などからの密告の推奨などまで行われるようになってきている。国家や国旗が問題になった頃には天皇の「押し付けになるのは良くない」との発言にもかかわらず、実質的には既に義務化されてしまっている。

 また会社などを通じた利権に結びつた言論の抑圧も次第に進み、個々人の自由な発言も大きな利益団体などの大きな声に消されがちなことも多くなり、労働組合の弱体化がこれを加速することにもつながっている。政府がらみの利権に結びつく業界団体などでは良心的な人の政府批判も語れない雰囲気になっているようである。

 こんな変化を見ていると、どうしても昔の大日本帝国を思い出さざるをえなくなる。政府はしきりに北朝鮮や中国の危険を煽っているとしか思えないし、それを利用して軍備を増強し、アメリカにより深く従属しようと躍起になっているようである。そのためには自由な言論を封じて、人々の反対を抑え、しゃにむに従属路線を進めるよりないのであろう。

 最近の北朝鮮の核開発やミサイル発射に対する政府のJアラート警報などの対応は度を越して国民に危機を煽っているとしか考えようがない。そのうちに共謀罪などの国民締め付けの法律が密かに動き出すのではなかろうか。「戦争が廊下の端に立っていた」という有名な句があるが、またこんな歌が自然に思い出されるような時代になってきたことをつくづく感じるこの頃である。