忖度が国を滅ぼす

 森友学園加計学園問題で官僚が安倍首相との関係を忖度して便宜を図ったのではないかと言う疑惑が国会で取り上げられてから、「忖度」という言葉が流行語のようになってしまった。

 しかし「忖度」は昔から日本の社会ではずっと大事にされて来たことではなかろうか。何よりも「和」を尊んで来た「むら社会」では、庶民は権力者の意向を「忖度」して、違った意見を抑えて大勢に同調し、皆が「むら社会」の「和」を保つことが大事だとされて来た。

 戦前の大日本帝国も「一億一心、百億貯蓄」「一億火の玉」などという標語からもわかるように、国民は独裁的な政府や軍部の方針に上から組み込まれるだけではなく、下からも政府の方針を忖度して協力した結果、耳の痛い異論は封じられ、反対者は排除され、皆がそのまま大きな流れに乗って突進し、戦争、敗戦という社会の破滅の道を突き進んでしまったのである。

 同じ「忖度」でも、弱者を思いやるのは素晴らしいことであるが、強者への「忖度」は単なる諂いだけではすまずに、大きな災難に繋がりかねないものである。今も、森友学園加計学園問題の場合の官僚たちがそうであるが、メディアが政府の意向を「忖度」して必要な報道を自粛するようなこともそれにあたるであろう。

 最近の世相は次第に戦前に似て来たように思えて仕方がない。政府の戦前復帰の政策に対して、それに群がる利益集団は言うに及ばず、官僚機構や地方自治体、メディアなどまでが政府の意向を必要以上に「忖度」して保身を計り、あわよくば利益にありつこうとする傾向が強くなって来たようである。

 先日の新聞でも、「梅雨空に『九條守れ』の女性デモ』という句が毎月公民館だよりに載せられていたグループの秀作に選ばれたのに、その句に限り掲載を拒否され、裁判沙汰になったことが載っていた。公民館は非掲載にした理由を「公平中立の立場であるべき観点から好ましくない」と説明したようであるが、裁判所は「公民館が俳句と同じ立場にあるとは考え難く、理由を十分検討しないで掲載を拒否した」として公民館側の敗訴となったそうである。

 しかし、これと似た、公共の場から市民の政治的な表現活動が排除されるケースは各地で相次ぎ、新聞によれば、金沢市では市役所前の広場で計画した護憲集会が不許可になったり、姫路市では労働組合の催しで安倍政権を批判するポスターなどがあったとして、市が途中から会場使用を中止にしたり、東京都の国分寺祭りでは護憲、脱原発を訴える団体が参加を拒否されたりと、全国的にあちこちで同様のことがおこっている。

 日本では、どこかで自治体が政府に「忖度」して何かを制限したりして問題になると、それを見、聞きした他の自治体までが問題になることを恐れて、右に習えで同じように政府の意向を「忖度」しなければならない雰囲気になり、同様なことが燎原の火のように広がっていくことが見られるようである。

 そうなると「忖度」が「忖度」を呼び、その周辺の事柄や場所にまで「忖度」が広がっていくことにもなりかねない。戦争体験者が戦争の体験をぜひ次の世代に受け継ぎたいとあちこちで精力的に話し続けてきた老人が、最近はだんだんと話させてくれる機会が減ってきたと嘆かれる話も聞いた。

 学校での教科書選定でも、学校の教師の選択によると言いながら、文部省や関係諸機関の思惑を「忖度」して決められる傾向が強くなってきているし、森友学園問題でチラと露見したように、教育勅語を教育に取り入れたり、国旗、国家を学校で強制したりする問題なども、一部の勢力が働きかけ、それを政府が暗黙のうちに後押しし、やがてその意向を「忖度」させて普及させていこうという傾向が顕著になりつつある。

 これまでの安倍内閣の政治姿勢を見ていると、憲法改正、戦争法、共謀罪、秘密保護法、北朝鮮による危機への対応、日本会議靖国神社日本会議教育勅語等々、最近問題となった項目を列挙するだけでも、世の中の右傾化が進み、戦前を思わすような動きが強くなってきているこの頃である。

 その波に乗って権力に対する「忖度」が流行り、反対意見が出しにくくなって来ると、いよいよ独裁的な政治の雰囲気となり、間違えれば「いつかきた道」で、また戦前と同じことを繰り返すこととなり、もはや後戻りできない破滅の事態に陥る危険性が増してくる。

 そう考えると、日本における「忖度」は日本の底流を流れる「むら社会」「和」、それに伴う同調主義、「タテ社会」などと密接に結びついたものであるだけに、一方的な「忖度」がひどくなるとこの国の将来までが心配になってくるのは私だけであろうか。