老人の会話

 年をとると誰でも多かれ少なかれ聴力が衰えるし、記憶力が悪くなる。全く聞こえなければ初めから筆談にするなりも考えるかもしれないが、長い間何の不自由もなく聞こえていたものが、次第に聞きづらくなっていくものなので厄介である。

 周りの者は昔通り聞こえるものとして話かけててくるのでそれに対応しなければならない。大事な話なら聞き返さねばならないが、些細な日常会話などでは面倒なので、大意が掴めればそれでよしとして、自分なりに解釈して対処する方が楽である。

 細かい言葉尻までいちいち聞き返すのは煩わしいし、相手にも悪い気がするので、大抵は聞こえたふりをして生返事をすることになる。相手の一方的な話などとなると、自分の利害関係にそれほど関係がなければ、余計に想像力も働かず、退屈なのでわかったふりをするか、いい加減な生返事をする。

 これを逆方向から見れば、何かを一所懸命に説明しても、頷きもするし返事も良いので、わかっているのかと思ったら全然通じていないようなことが起こる。これが身近な家庭内の会話などとなると勝手ツンボと言われることにもなる。

 聞こえた範囲だけをまとめて自分なりに勝手に解釈するので、大事なことや、自分に都合の良いことは聞き取りやすく、理解しやすいが、都合の悪いことや、耳障りなことは聞きたくないので、曖昧に聞こえた言葉は余計に聞き取りにくいことになる。

 会話をする片方の人の難聴でもこうなのに、会話する二人がともに聞こえにくいと余計に勘を働かせなければ意思が通じにくいことになる。夫婦などだと、「耳が悪くなった」と非難すれば「発音が悪い」と返ってくる。それでも程度がひどくなければ、時に勘違いはあっても、それほどの支障もなく、なんとか日常生活は成り立つものである。

 更に老人の会話で問題になるのは聴力の低下や発音だけではない。人や場所などの固有名詞が出てこない記憶障害の方がもっと大きな問題として加わってくる。認知症がなくとも必要な時に固有名詞が出てこなくて困るのは歳をとれば誰にでも起こるありふれた現象である。

 こういう物忘れはその時に思い出そうと焦っても先ず出てくるものではないが、後で思わぬ時にひょっこりと出てくるもので、思い出せなくてもごまかす方法もあり、あまり困らなくても良いものである。

 老いた夫婦が話をしている時など、会話の対象となっている固有名詞がどちらにも出てこないので「あれがこうした」「これがああだった」というような会話が続くことになるが、案外、対象となっているもの自体はどちらにも解かっており、お互いの話はピントが合って話が進むことも多いものである。

 記憶障害がもっと進んだ痴呆症になっても楽しい会話は結構できるもので、ある時、老人ホームで見た光景が忘れられない。認知症の進んだおばあさんが二人で話している。聞いてみると、どちらも何をいっているのかさっぱりわからない。しかし、お互いに相手が何か言うたびににっこり微笑んで嬉しそうに、訳のわからない返事をする。それに対して相手もまた同じように嬉しそうに相槌を打って、また訳のわからない返事を返す。そんな応答がいつまでも続いてお互いに満足して会話を楽しんでいるのである。

 会話は単に内容のやり取りだけではなく、お互いに情緒を慰め合う役割を果たすものだと言うことをその時つくづく感じさせられたものであった。老人にとっては、会話はその内容の伝達よりもむしろ心の安定のために役立っているもののようである。