原爆の日に

 昨日は広島へ原爆が落とされた日であった。もう72年以前のことになるが、未だに昨日のことのように思い出す。

 午前8時15分、その海軍兵学校生徒で江田島にいた私は、朝の自習時間中であった。突然教室にそれまで経験したこともない閃光が走り、何事かと思ったら少し間を置いてどかーんという轟音が響き、皆が一斉に飛び出した時には、空にムクムクと原子雲が湧き上がり空高く成長していくのが見られた。

 その時はまだ原子爆弾ということはわからなかったが、あの閃光と轟音に続く湧き上がった巨大な雲を見て、すごい爆弾が落とされ、きっとあの雲の下では大きな犠牲が出ているのだろうと想像するだけで実態はわからなかった。軍の発表では新型爆弾という言葉が使われた。

 それからやがて敗戦。粋の良い上級生が日本刀を抜いて「海軍はあくまで戦う。貴様たちは帰ったら最寄りの特攻基地へ行け」などと檄を飛ばしたりしていたが、8月24〜25日頃だったと思うが、「生徒は早く故郷へ帰らせよう」という方針で、カッターに分譲させられ、曳航されて、広島の宇品について、そこでしばらく待機させられた後、そこから右手に比治山を眺めながら、それこそ何も残っていない壮大とも言える焼け跡を徒歩で広島駅まで歩いた。

 人っ子一人いない感じの見渡す限りの焼け跡。端から端まで大地が全て茶褐色の瓦礫で覆われていた。大阪などで見た焼け跡と違い、何か燐の燃えるような匂いが漂っていたのを覚えている。半ば裸の男が二人ともに、体中が赤と白との斑点状になった皮膚をして、お互いに助け合うような格好をしてもたれあいながらよたよたと視界をよぎっていくのが見られた。

 焼け跡には所々に「赤痢が流行っている。生水飲むな」と書かれた紙が焼けてひん曲がった鉄棒などに巻き付けられているのが印象的であった。炎天下を長い間歩いたが、全てが焼け跡だけであった。

 その時はまだ戦争中と同じ気分だったので、こんな災禍をもたらしたアメリカに対する憎しみと怒りと、そのアメリカに負けた屈辱感でいっぱいであった。この恨みはいつかは晴らさなければと思っていた。

 広島駅で長い間待って、夜になって無蓋の貨物列車に乗り、乗せてくれという大勢の民衆を兵隊が振り落としてようやく出発し、無蓋車なので煤で真っ黒になって朝方にようやく大阪に帰り着いたのだった。

 その後、原爆については多くの事実を知ったし、多くのことを学んだ。しかし、どう見ても原爆は人道に反する犯罪である。日本の侵略戦争のことを考慮し、一般的な戦争の非情さを考慮に入れても、人道上許されない犯罪行為だということは間違いない。戦争は人を非理性的な残虐行為に駆り立てるものであるが、化学兵器禁止条約などがすでに結ばれていたことや、戦後の極東裁判で人道上の罪が追求されたことからしても、原子爆弾の非人間性を見れば、その一般市民への投下が罰せられなければならないのは当然であろう。

 現実の問題としてそれが不可能な現在、少なくとも将来を見据えて核兵器廃絶を求めることは当然のことで、日本がそのリーダーシップを取るべきであるが、戦後アメリカの属国にさせられてしまった日本は、72年経った今なおアメリカの意向を考慮して核兵器禁止条約にまで反対している哀れな状況である。

 「過ちは繰り返しません安らかにお眠りください」と書かれた原爆慰霊碑がまるで死者を欺き冒涜しているようなものではなかろうか。この荒れ狂う世界の中で対処を迫られる多くの問題があることは十分わかるが、原爆による多くの無辜の死者たちの無念に答える最低限のことは残された我々の義務である。

 72年経っても昨日のことのように忘れられない原爆、そしてあの無謀な戦争。8月になるごとに改めて思い返すのが責務のようになっている。死ぬまでは忘れようとしても忘れることができないのが戦争であり、原爆である。

 最後に一言付け加えたいのは、最近南京虐殺はなかったなどという人までいるが、日本による中国侵略や、南京占領時の大量虐殺は事実であり、我々が原爆を忘れられない限り、中国人も日本による侵略や南京虐殺を忘れないことを知るべきである。お互いに世界中の人たちが、過去を正しく知り、人間の愚かさを理解し、お互いに過去の過ちを許す寛容さを得て、初めて真の友好関係が築かれるのではなかろうか。