綱渡りと禅

 たまたまメールの案内で知ったのだが、先日イタリア人でこれまで「綱渡り」をしてきた人が禅を知って、綱渡りに禅を生かしている話をイタリア文化会館で聞いた。

 高い所に張られたロープの上を歩くことなど高所恐怖症の傾向のある私には考えられもしないことだが、誰にとっても、そんな芸当はそうたやすく出来るものではない。見物しているだけでもこちらまで身の竦む思いがするぐらいだから、実行する本人にとっては、いくら訓練をしたとしても、並大抵の神経では出来るものではないであろう。

 いくら慣れていても、常に落下の危険にさらされるわけで、怖くないのであろうか。平常心などと言われるが、本当にそれでで渡れるものだろうか。空中での体の平衡の取り方や、綱の上の足の動かし方、歩き方など体の技術的なことより、高所の恐怖に耐える精神的な安定感をどうしているのかの方が気になるところである。

 本人はもう11年間綱渡りを続けてられているそうだが、その恐怖心を克服するために恐らくいろいろなことを試みてこられたのであろうが、たまたま日本で禅に出会い、禅の修業をして、それを綱渡りに生かして来られたということであった。

 綱渡りをしている他の人たちも、それぞれに自分に対する精神面での手当を考え、実行してられるのであろうが、この方は禅を身につけて、綱渡りの前には必ず、目を閉じ、片腕に神経を集中させて静かに何回か深呼吸を繰り返して呼吸を整え、邪念を去って、他のことを何も考えない状態で綱を渡るようにしているのだそうである。

 自ら無我の境になろうとするのではなく、落ち着いて他のことを一切考えず、自分に集中し、呼吸を整えて、心を無にするようにしていると、ある瞬間に無が向こうからやってくるという。おそらく座禅をして一切の考えを捨て去った時に、無我の境地が向こうからやってくるということであろうか。

 そうなると何の恐怖もなく、無我の境地で静かに足を進めることが出来るのだそうである。実際に同じ体験が出来るわけでなく、一度話を聞いたぐらいでその心理を全て理解できるわけではないが、静かに目をつぶって邪念を追いながらゆっくり深呼吸し、心を落ち着かせた時のことを想像すると、無が向こうからやって来るという状態も想像出来なくもない。

 綱渡りと禅とは一見何も関係がなさそうにも見えるが、話を聞いてみると、なるほど

両者は十分繋がりのあることがわかる。禅の心は西洋流のメディテーションにより心を鎮めるのとは異なり、もっと深いものだとも言っておられた。

 それとはレベルの違う話ではあるが、私の身近な話では、最近毎朝のテレビ体操の前に、年齢による平衡感覚の衰えを少しでも送らせようと思って、左右の足で交互に1分半づつ片足立ちを実行しているが、その時の状態が少し似ているかも知れない。

 片足立ちの間、時計だけを見て何も考えずに立っている時が体が一番体が安定しているようで、ちょこちょこテレビを見たり、要らぬことを考えたりすると、途端にバランスを崩しかけることになることが多い。勿論、無が向こうからやってくるなどという境地にはほど遠いが、静かに深呼吸をして、何も考えない瞑想時の心境は分からないものでもないので、そのずっと先の延長線上にそれを想像して見るのであった。

 この方の綱渡りの話を聴いて、禅の知識、綱渡りの恐怖感などを結び合わして想像してみると、なるほど綱渡りと禅との繋がりの深いことに引き付けらるとともに、禅と結びついたこの人の綱渡りの今後の成功を願わざるを得なかった。