目の見えにくいのも悪いことばかりではない

 年とともに老眼が進み、その上、まだ現役時代に患った黄斑浮腫の後遺症のため、左目は中心部分が見えないし、直線も歪んで見える。そうなると片目で見ているようなものなので、遠近感も鈍くなるのであろう。段差がわかりにくくてひっくり返ったりしやすいし、路傍に張られた鎖が見えなくて、引っかかって転倒したこともある。

 メガネをかけていてもバリラックスレンズなどでは、レンズの下方だけが近眼用になっているので、本を読んだりする時には便利だが、階段を降りる時などには丁度レンズの下方の近眼用のところで前下方を見ながらで降りることになるので、焦点が合わず見えずらくなるので、ついうっかり階段を踏み外す恐れも多くなる。

 イスタンブールへ行った際、ガラタ塔の階段を降りる時に最後の一段を踏み外して転倒した時のことが忘れられない。以来、階段を降りる時には、必ず手摺を持たないまでも、いつでも持てるように手摺に手を添わして降りることにしている。

 すぐ近くにある物でも見逃すことも多い。老眼鏡をどこに置いたのか忘れて、あちこち一所懸命に探してもどうしても見つからない。諦めかけたら何のことはない。すぐそこの椅子の上にあるではないか。茶色い椅子の革の上に同系色のメガネケースが置かれているので、見ているのに分からなかっただけであった。

 薬を飲もうとして白い錠剤を三つ机の上に出したのだが、いざ飲もうとしてコップを取り出している間に錠剤がどこへ行ったのかわからなくなってしまった。白いテーブルクロスの上の白い小さな錠剤は見つけ難いものである。

 また、遠方が見えにくいと、物がぼんやりとしか見えないので、特に薄暗い所などでは遠方にあるものを誤認したりすることになる。てっきり遠方に人がいると思って近づいたらポストであったり、標識であったりすることがあるし、時にはすれ違った知人が分からなかったりして礼を欠くことにもなる。

 目が悪いと言っても、見えないわけではないから、本も読めるし、日常生活にそれほど困るわけでもないので、このようなことが時々起きることぐらいは仕方がない、まあいいやと思っている。

 それに、中途半端な視力低下はまんざらは悪いことばかりでもない。ぼんやりとしか見えないために、思わぬ映像が思わぬ想像力を掻き立てて、思わぬ楽しみを与えくれることさえあるものである。

 川辺を散歩している時などに、てっきり水鳥だと思って見ていたら、近づいてみると流されてきて何かに引っかかっていたゴミだったというようなこともある。

 いつも通り過ぎる駅の通路の端近くに鉢に植えた植木が置かれているのだが、通る度に遠方から見ると、誰か人が少し屈み勝ちな姿勢でドアを開けようとしてしているように見えるのである。初めのうちは本当に人がいて扉を開けようとしているところかなと思ったが、度重なるうちにネタがバレているので、それからはむしろ間違って人に見えるのを楽しみながら通り過ぎることにしている。

 また、先日はある街の港で船の見える岸壁に面したレストランで食事をしていた時のことである。テラスから岸壁に係留してある船を見ると、何やら変わった船が停泊しているではないか。何か作業をしているようであったが、船体の上部の客室の部分が見たこともない変った形をしているのである。

 客室の部分が青色で天井が少し山形に膨らんでおり、客室部分を横切って端から端まで続いている窓が少し傾斜がついて斜めに並んでいるのである。こんな客室が前後に傾いて作られている船など今まで見たこともない。窓が広く大きく開いている。フェリーか何かであろうが、客室部分をこんな流線型にしてしかも傾斜をつけているのはどうした船なのであろうか。変わった船だなと思って見直して見てもやっぱりその通りである。

 これまでこんな船は見たことがない、どうなっているのだろう。食事が済んだらどうしてももう少し近くまで行って確かめなければと思いながら食事をしていた。ところが食事を済ませて外へ出て、確かめようと思って、岸壁の方向に向かって今一度見直して見ると、近くへ行くまでもなく、視線が変わったので、船の景色が変わった。

 何のことはない。停泊している船の背景に、湾の向こうのなだらかな山が見えており、丁度それが船と重なっていたのである。青い船室部分に見えたのはその山で、それを綺麗に上下に分断して並んでいた窓は、水平から少しだけ傾いたクレーンが重なっていて、その骨組みが窓のように見えていたのであった。

 分かってみたら、今度はどうしてあの山が船体に見えたのか、いくら見直して見ても、山は山、船は船で間違いようもないのだが、ぼんやりとしか見えない時には、頭が勝手に想像を巡らして、それなりに勝手なイメージを纏め上げてしまったもののようである。

 視力の悪い目には山が船の客室部分にあたり、それを横切っていたクレーンの柱が客室の窓として認識されていたのである。分かってしまえば何ということもないが、目が悪くてはっきり見えないと、かえって思わぬ想像の世界に遊ばせてくれることもあるようである。

 目の悪いこともまんざら悪いことばかりではない。それによる危険や不便さは出来るだけ避けたいが、時々はこのような偽りの映像を楽しませてくれることもあるのである。