車社会の損失

 ロサンゼルスで空を見上げるといつも晴れて雲ひとつない深みを帯びたカリフォルニアブルーと言われる青色の空が広がっている。

 しかし車で高速道路などを走ってみると日によって異なるが、排気ガスなどによるスモッグで遠方が霞んでいることが多い。光化学スモッグが世界的に問題として取り上げられた1950〜60年頃よりはマシなのだろうが、今でもスモッグは続いている。

 カリフォルニアは今も人口が増え続けており、街は広がり、それに伴って嫌でも車も増えることとなり、大気汚染が減るはずもない。どの高速道路も年々ますます車が増え、混み具合がひどくなり、いくら道路を増やしても追いつかない。

 ロサンゼルスではボストンやニューヨークなどの古い町と異なり、市街地が完成する前に車社会が始まり、自動車会社の圧力にによってせっかく走っていた市電が廃止され、全面的に車に依存した街にしてしまった結果、町は途方もなく広がり、人々は毎日車で長距離走らないと日常生活さえ営むことさえ出来なくなってしまった。

 車社会はかっては、日本から見ていてカッコ良いなと羨ましくさえ思ったものだが、全ての生活を車に依存しなければならなくなり、多くの時間を車の運転に割かなければならなくなると時間の浪費だし、日常活動もかえって小回りが利かなくなり、全てが大まかになり、それだけ無駄も多くなる。

 ちょっとした何かを買うにも歩いては行けず、全て車で行かねばならない。都会にいながら日本の田舎暮らしと同じである。車社会に合わせて町がどんどん平面的に広がるので目的地にたどり着くまでの時間もどんどん長くなる。その上どこへ行っても道は混んでいるし駐車場所を探し、駐車し、そこから目的地まで歩き、用が済めばまた駐車場所まで戻らねばならず、時間的にも空間的にも無駄を強いられる。

 毎日の車通勤で費やされる時間が往復3時間も4時間もかかることも稀ではない。そうなると車の運転に費やす時間の総計も半端なものではなくなる。電車通勤ならまだ電車の中で居眠りすることも出来るし、座れなくても本を読むぐらいのことは出来ることも多い。それが無理でも自分が運転するのでないから、ぼんやり外の景色を眺めたりしながらリラックスしたり、仮眠をとったりすることも出来る。

 それが自分で運転するとなると運転するのに注意しなければならないし、緊張を強いられる。そのためあまり深くものを考えるのにも向いていないし、音楽ぐらいは聞けても、すっかりリラックスすることなど無理である。その上、一所懸命緊張して運転したからと行って何かが得られるわけではない。他人に依存して運んでもらう方がずっと楽だし、効率も良い。

 車社会も、車をレジャーで利用するぐらいなら良いが、日常生活の足を全て車に依存しなければならなくなれば馬鹿げている。時間の浪費とも言える。毎日の運転時間を足して見れば一年でどれだけ時間を無駄にしていることになるであろうか。車に乗らない者だからそう思うのかも知れないが、ただ余計な負担を自らにかけているだけなのではなかろうか。

 車に全面的に依存してしまった社会は最早急には変えられそうにもない。車社会のために都市があまりにも広がりすぎて、今更電車を走らせようとしてもなかなか多くの人が車なしでも暮らせる様にうまく路線を作り、効率よく電車を走らせることも難しいようである。メトロも走っているがあまり利用されていない。

 電車に依存しているような日本では電車が走り、駅が出来ると、駅周辺が賑うが、車社会では電車を利用するには駐車場も必要だし、車に慣れている人にとってはわざわざ車を降りて電車に乗り換える不便さもあり、なかなか日本のようなわけにはいかないのであろう。メトロの路線も永長されつつあるがまだまだ車の補助的な役割を果たすところまで入っていない。

 車は本来は遠距離まで早く行けるという効率の良さから発達したものであろうが、社会が全てこれに依存する様になると、住民の多い都会などでは返って無駄の多い効率の悪い社会になってしまう様である。足と電車やバスに慣れた年寄りにはとても住みたい社会だとは思えない。

 そんなことばかりを話すと、娘の言うには、孫の学校への送り迎えに長年車を利用してきたが、孫を学校でピックアップして車で一緒に乗って帰る時などに学校での出来事など話を聞くと、学校の終わったすぐ後だし、対面ではなく、横に座っての対応となるのでお互いに話しやすく、学校での出来事やその時の子の気分、考えなどを聞くのに役に立ったと言っていた。

 なるほどそんな利点もあるであろうが、それでも全体としては、あの様な車社会の生活はやはり御免蒙りたいものである。やはり駅まだ歩いて電車に乗る生活の方が気楽なきがする。