益々閉鎖的になる家

 最近建てられる個人住宅を見ているとどれも窓の狭い閉鎖的な外観の家ばかりのような気がする。

 もともと日本の家は、開け広げの夏型の作りで、広い縁側があって、その中間的な感じがする場所を通じて、内外の交流が行われる開放的な建て方が基本であった。近所の人がやって来て縁側に座り込んで交流したり、家族が縁側を通じて入ったり出たりして屋内と屋外を気安く出入りしたものであった。夏はそこから風が入って屋内もいくらか涼しくすることも出来たわけである。

 親しい近所の人や家人などは夜間に訪れて表で応答がないと庭に回って縁側の雨戸を叩いて中にいるものを起こすようなこともあった。病気で診療を休んでいた田舎の医者が、寝ていても知った患者が庭に回って雨戸を叩くのでゆっくり寝てられないとこぼしていたことを思い出す。

 そんな伝統から、分譲住宅や建売住宅でも20世紀の間ぐらいは狭くても縁側が欠かせないもののようであったが、最近の家からはは縁側というものが消えてしまった。それでもまだ比較的最近までは床まで開けられるガラス窓の部屋が一つや二つは用意されており、縁側ほどでなくても窓ガラスにもたれて日向ぼっこをするぐらいのことは出来る家が多かった。

 ところがいつ頃からか縁側や床まで開く大きな窓もなくなり、せいぜい腰の高さぐらいまでしかない普通の窓だけしかない家が増え、さらには最近は腰の高さの比較的広い開口部さえ少なく、小いさな窓しかないような家が増えて来た。外から見てもあれでは風も入らないし暑いだろうなと思わざるを得ないような家ばかりである。

 いずれも新築で少なくとも外観の設計はなかなか洒落ている家が多いが、窓はいずれも人の出入りも困難な狭い縦型のガラスのはめ込み窓で、取りつく島もないような閉鎖的な冬型住宅の感じである。おそらく今はエアコンに依存しているので外気を取り入れなくても快適な空間を作れるからであろうか。

 どうしてこんな家が流行るのであろうか。初めて見た時には訝しがったが、最近の住宅は50坪とかそれ以下の狭い土地に、敷地一杯の建物を建てる上、駐車スペースもいるので、広い開口部を作ると、隣家と中まで見え見えになりプライバシいが保てないので、必然的に開口部を狭くして、内部はエアコンなどで温度や湿度を調節するということになるからのようである。

 こうなるとせっかくの一軒家の開放感も薄らぎ、マンションと変わらない感じになるので、むしろマンションの高層階の方がベランダの開放感があり、より快適なのではとも思うのだが、それでも今の段階では共同所有のマンションより狭くても土地付きの一戸建ての方が人気があるようである。

 昔の住宅地であれば、狭くても庭があり、そこで子供達が遊んだり大人が庭木の手入れや草花を育てたりして、隣家の住人と顔をを合わせたりして交流が出来、向こう三軒両隣ぐらいはお互いに何かにつけて助け合うようなこともあったが、少子高齢化の時代では住宅地でも隣近所の付き合いが薄らいで閉鎖的ななったが、そこに閉鎖的な建物ばかりが並ぶと、建物ばかりでなく、人間関係までが益々閉鎖的になって、隣は何する人ぞということになっていくのではなかろうか。

 まだマンションであれば、共同住宅なのでその維持管理について住民同士に話し合いをしなければならない機会もあるし、エレベーターなどで顔を合わせて話をするなどの機会があり、近隣の交流の機会が多いかもしれない。

 今後益々進む少子高齢化の時代で人口も減少がみられる時代に、高齢者の多い地域などでは、何かの時のためにも、せめてお互いの顔ぐらいは見知っていていて欲しいものである。地価の高騰する大都会では仕方がないのかもしれないが、一戸建ての住宅ではせめて小さくても少しでも庭がありもう少し開放的な家にして欲しいし気がする。そうでなければ少し広い目のマンションを目指してはどうであろうか。

 狭い敷地に小さい窓しかない閉鎖的な家は住む人にとっても開放感に乏しいし、住む人の人生までを閉鎖的にしてしまうような気がしててならない。