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総入れ歯

 歯科の領域では「八十、二十」という標語があり、八十歳になっても二十本の歯が残っているように若い時から歯の手入れを怠らないようにということらしく、地域の健康祭などでも該当者の表彰式が行われてたりしている。

 しかし、私の場合は五十代で前歯が欠けて入れ歯を入れなくてはならなくなり、「八十、二十」どころか。七十過ぎからすでに自分の歯は下顎に左右一本ずつが残るだけとなり、自嘲気味に「八十、二」と言ったりしていたものであった。

 上顎は総入れ歯であっても、入れ歯は吸引力で吸い付いているので問題は少ないが、下顎の入れ歯は言わば歯齦にただ乗っかっているだけのようなものなので、残った二本の歯が入れ歯を支えているのだから大事にして置かなければならないものである。歯が二本だけとなると手入れがしやすいこともあり、以来できるだけ大事に取り扱ってきたつもりである。

 そのせいか、十年以上も二本の歯の時代が続いた。しかしやはり次第に歯齦が萎縮し、歯の背丈がだんだんと高くなり、徐々にぐらつき加減にもなって来る。いつまで持つか、時間の問題となる。二本の歯にかかる入れ歯の負担も無視できず、二年前にとうとう左の一本が抜けてしまい、右の一本だけになってしまった。

 歯医者に行こうとしたら以前に入れ歯を作ってもらった医者はもう亡くなって診療所も閉鎖されてしまっていた。仕方がないので近くの古くて良さそうな歯科医院を見つけて入れ歯の抜けた歯の所を補ったもらったが、同時にいっそのこと残る一本も抜いてもらって下顎も総入れ歯にしてはとも思ったが、一本でも入れ歯の支えになっているので大事にしておいた方が良いとの忠告も真っ当なので、最後の一本を大事にすることにした。

 自分の歯が一本だけになってしまうと、入れ歯を外して口を開けると土手のような歯齦に白い背の高い歯が一本だけ残っており、まるで寂しい野辺の土手に一人ぽつねんと立ったお地蔵さんのような感じとなった。いつまで持つかわからないが最後の一本だから大事にしてやろうと思ったものの、一本だけになってしまうと下顎の入れ歯の負担が全て一本の歯にかかってしまうので、もういつまでも持ち堪えられるものではない。大切にしていたが、おおよそ二年経ったこの正月についに最後の一本がなくなってしまった。朝起きたら歯がない。てっきり寝ている間に飲み込んでしまったのではないかと思ったが、ベッドサイドに落ちていた。こうして全くの無歯となった。

 いよいよ総入れ歯ということになる。これまで入れ歯になってからは返って歯のトラブルがなく、食物の咀嚼にも問題がなく肉でも普通に食べれたので、入れ歯で何の問題もなく、歯医者にも長らくかかったことがないと自慢していたものだったが、下顎まで何もなくなると今後は下顎の入れ歯が浮いて何か接着剤でも使わないと食事がうまく食べられないのではと不安になった。

 事実、抜けた最後の歯の部位がカラになったままの入れ歯ではそのまま食事をしようとすると咀嚼とともに歯が浮いてしまって食べられない。しかし、食事を口にする時少し上の方を見て食事を口に入れ、そのまま下顎の入れ歯をできるだけ動かさなくても良いようにして、注意深くゆっくり咀嚼するとなんとかいけるが、それでも途中で入れ歯が外れて食物に混ざり、噛めなくなってしまうことにもなる。仕方がないのでポリグリップなどという歯の接着剤を買ってきて、それを入れ歯に塗って食事をせねばならなくなった。

 それでも四、五日は何とかやっていたが、そのうちに外れやすい入れ歯に不要な力が加わったのであろう。下顎の入れ歯が真ん中で折れてしまった。こうなるともうどうにもならない。いよいよ下顎も入れ歯を作り直して、総入れ歯にするより仕方がない。

 以前の話では総入れ歯は健康保険では良い物は出来ず、自費では五,六十万かかるとかいう話だったが、もういつ死んでもおかしくないこの歳であれば、死んだ後に真新しい入れ歯だけが残るのは笑い話にもならない。どうしたものかと考えた。下の入れ歯の吸着には色々問題もあるようで、インターネットでも「よく吸着する下顎総入れ歯の作り方」などという歯科医用のビデオの広告などもあるぐらいなので、果たしてうまく行くのかどうか少し不安であった。

 しかし歯科医へ行って、まずは折れた入れ歯を直して貰い、欠けた歯のところを補ってもらうと、うまくフィットするし、穴の塞がれた入れ歯は思いの外、下顎によく吸着するではないか。「案ずるより産むは易し」で歯医者も接着剤など使わなくてもこれでいけるだろうからこれで様子を見てはということとなり、これまでの入れ歯のままで様子を見ることになった。

 以来、また以前と同じように何のトラブルもなく、総入れ歯でも何でも普通に食べられる。また何のトラブルもなく入れ歯の時代を過ごすことができている。総入れ歯は上も下もうまくフィットしており何でも噛める。人間の体の適応力の素晴らしさを感じるこの頃である。総入れ歯も決して恐れることはない。虫歯や歯槽膿漏で苦しむより早く総入れ歯にした方が良いかもしれないと勧めたくなるぐらいである。

 ただ、「エイッ」と言って口を開けて叫んだような時や急に咳き込んだ時などに、口内の圧力で下顎の入れ歯が口から飛び出すことがあることだけには注意しておかねばならない。それを除けば、今のところ、総入れ歯万々歳である。