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間人カニ

 先日誘われてカニ料理を食べに行った。行き先は丹後半島の「間人」という所。

「間人カニ」といってそこで採れた特別なカニで、有名なのだそうである。

 日本海松葉ガニはそれぞれ取れた港によって名前がつけられているが、カニは

広く分布し、広い海を移動しているだろうから、日本海のどこで穫れようがそんなに変わるはずがないのではないかと思われるが、「間人カニ」は有名らしく、私はどう読むかさえ知らなかったが、たまたま仕事の関係で知った人との会話に出てきたが、その人も行ったこともあるようで、正確に読み方まで知っていた。

 バスで丹後半島の北岸まで行くと「間人温泉」という所があり、そこの小さな港で取れた新鮮なカニを食わしてくれるのである。美味しいカニのフルコースであったが、私には昨年味わった三国港の越前ガニとの優劣はつかなかった。

 それは兎も角、行く前から気になっていたのは、カニのことではなく、「間人」の読み方である。どう読むかわかりますか?日本の地名には色々な読み方があるが、こんな無茶とも言えるのも稀ではなかろうか。字面とは全く関係がないので、何度聞いてもすぐ忘れてしまって思い出せなかったが、「タイザ」と読むのである。

「間人」と「タイザ」がどうしても繋がらないので不思議に思いながら、カニ料理屋の女将に由来を聞いててみると、古い古い歴史があることを教えてくれた。日本の大昔の話に繋がっているのである。

 それによると、かの有名な聖徳太子の母親が穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)といい用明天皇の奥さんだったが、当時の蘇我家と物部家の争いを避けて、まだ子供だった聖徳太子共々この地に逃れ住んでいたことがあったのだそうである。そこで彼らが都へ帰る時にその名を地名に使っても良いと言った由。ところが、そのまま「はしひと」とするのは恐れ多いので、その地の座を退かれたことから「タイザ」と呼ぶことになったという説明であった。

 聖徳太子と母親がこちらに住んでいたことは歴史的にも事実とされているらしく、親子の像が日本海に面して建てられている写真もあった。

 そういう話を聞くと、カニ以上に「間人」と昔の歴史との結びつきが興味深く感じられ、帰ったら早速インターネットで検索して調べてみた。

 するとあるわあるは、世の中には歴史に興味がある人がわんさといるので、色々な話がたくさん載っていて、とても全てに目を通すわけにはいかない量である。

 穴穂部の穴は阿羅に通じ、伽耶を意味し、当時ことに日本海側は朝鮮半島との関係が強く、聖徳太子伽耶の出身だったという説もあるようで、その頃は伽耶百済新羅などから移住してくる人も多く、「伽耶の王族だけが正当な王になれる」とも言われていたとかで、聖徳太子の出である蘇我家も半島の出身だそうである。

 さらに間人(ハシウド)の「ハシ」は「波斯」とも書き、ペルシャを意味するのだそうで、そうすると間人皇女はペルシャ系の伽耶からの渡来人で、そういえばその息子の聖徳太子の毛が赤かったと言われていたのも納得がいくことになる。

 まだ日本書紀も編纂されていない遠い昔の話なので、誰も確かめようもなく、想像の域を出ない話になるが、そうとすると女将の説明にあった聖徳太子親子の間人滞在も、都から逃げて来たのではなく、伽耶と大和を結ぶ途中の地点で、いっ時ここを本拠に暮らしていたと考えた方が良いのではないかとも思われる。当時は子供が大きくなるまで母親の里で暮らす風習があったとも書かれている。

 インターネットの更なる知識によると、「タイザ」は「タイギ」の訛りで、「タイギ」には「全てを繋いだ」というような意味があるそうで、「間にいる人」すなわち仲介者を意味するという説明もある。そうすれば半島と大和をつなぐ間の人、仲介者としての役割をさして「間人」とされたものかも知れない。

 このようなことを調べだすとキリがなくなるので、適当に切り上げた方が賢明であろうが、思わぬ難しい地名の所へ連れて行ってもらったおかげで、美味しかったカニだけでなく、思わぬ古代の歴史を感じさせて貰うことが出来、良い思い出となった次第である。