夜明けの楽しみ

 昨年の秋、我が家の東側の裏の家が取り壊されて更地になった。何年か前にその家の主人が亡くなり、しばらくお経の声などが庭に伝わってきた時期があったが、いつしかそれも止み、おばあさんが一人で住んでられたようであった。

 時々娘さんらしい方が訪ねて来てられる様子だったが、とうとう家を売られたらしい。ある時、我が家にも測量会社の人が来て境界線の確認をしていったりしたが、その後一月ぐらいすると、突然ブルドザーやクレーントラックなどが来て、4〜5日の間にたちまち家が解体され、跡地も整理されて更地になってしまった。

 急に裏の家がなくなると、これまで気がつかなかったが、我が家の様子も少し変わった。隣の建物がなくなって庭が急に広くなったような感じで、東側の窓を開けると一筋向こうの道を車や人が通るのが見えるようになり、その通りの向こう側が古くからの空き地なので、その向こうの二筋向こうの家の裏までが見えるようになった。

 私は朝が早いので起きてすぐにまだ暗いうちに東の窓を開けると、従来は隣家の屋根が遮っていた視界が急に広がったので、遥か向こうのマンションの並んだ窓の光までが夜空に浮かんで見えるようになった。広々とした感じで気持ちが良い。深呼吸でもしたくなる気持ちになる。さらには、しばらくして世が明け始めると、今まで見れなかった日の出の一部始終が部屋の中から居ながらにして見えるようになった。

 日の出の前後の空の変化は何度見ても飽きないもので、同じ日の出でも見る日ごとに微妙に違って同じものはない。殊に黎明から曙にかけてのまだ暗い空の色、やがて次第に明るさを増してくる空と雲で作る美しい景色や、少しづつ刻々と変わっていく変化の様子は何度見ても飽きない。その都度新鮮な感じで目を覚ましてくれるものである。

 昔からこの夜明けの空の変化には誰しも何か神々しささえ感じながら深い思いで見て来たものであろう。未明から明け、夜明け、(早朝)、黎明、暁、東雲、曙、払暁、彼誰時などと初めから終わりまでを色々な呼び名で呼び、微妙な変化を言い表して来たようである。

 昨年の冬には美ヶ原の頂上で零下20度に震えながら日の出を見て感激したものであったが、今やそれとは違っても、そのような手数をかけることもなく、家の窓から暖かい室内にいて毎日朝日の一部始終を眺められるようになったのである。ありがたいことである。やはり日の出は素晴らしいものである、何か心が洗われた感じがする。

 今や毎日朝起きて雨戸を開けるのが楽しみになった。広い空の明け方の景色は清々しく何か神秘な思いさえ伴っている。更地になった隣の土地には、いずれまたいつかは新しい建物が出来るであろうが、それまでは毎日日の出を拝めるこの特権を享受しておきたいと思っている。